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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇
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百三十五、従者

 亜耶がやっと産屋(うぶや)から出て来たのは、夕刻の事だった。女御館(おなみたち)に戻れば、夕餉が用意されているだろう。

「亜耶!」

「あらお父様、お帰りなさい」

 呼び掛けた大蛇(おろと)を綺麗に無視して、亜耶は巫王(ふおう)に笑い掛けた。此れには巫王も気不味そうで、亜耶に苦言を呈すべきか思案して居るのが窺える。

 綾が亜耶の腕から赤子を受け取り、大蛇に渡して来たのも巫王を焦らせた。

「………」

 大人しく受け取った大蛇が苦虫を噛み潰した様な顔をして居るのを、亜耶も綾も気にして居無い。大蛇はと言えば、此処で騒ぎ立てても無駄だと思ったのだろう。赤子の顔をじっと見て居る。

「…兄者の目の色だ」

「大蛇?」

 巫王が聞き返すが、掠れた声で言った其れを大蛇は繰り返す事をしない。其の間に綾が亜耶を抱きかかえて、馬車の荷台に乗り込んでいる。

「…八津代(やつしろ)、赤子を抱いて居て呉れ。俺は馬車を御す」

「あ、ああ、大蛇。大丈夫か?」

 巫王の問い掛けに鼻で嗤って応えた大蛇は、其の侭亜耶の方を見ようともしなかった。荷台からは和気藹々とした話し声、しかし巫王と大蛇に笑顔は無い。

「大蛇、私も女御館に寄っていって良いか?亜耶に思う所が有る」

「ああ…何言っても言い返されると思うけどな」

 投げ遣りな大蛇の言葉に、巫王は肩を竦める。巫王ですら全ての子の子生みに立ち合った。(かな)しくも無い羽鳥(はとり)の子生みですら、巫王は産屋の前で待ったのに。

 大蛇がどれ程初子(ういご)を楽しみにして居たのか、此れまでの献身が何だったのか、亜耶には全く見えて居無い。綾が産屋に居て呉れたのは助かったが、其の後が拙かった。

 確かに孕みは大変な事だろう。男には分からない物が、多々有るのは当然だ。けれど男の側にも、産女には分からぬ色々が有る。

 もう子生みを終えて闇見(くらみ)が出来るのだから、少しは(つま)の事も見れば良い。巫王はどうしても、そう思って仕舞うのだ。




 女御館まで馬車を走らせ、大蛇は三人を降ろした。大蛇は厩に荷馬車を返しに行かねばならない。

「綾、お前は神殿(かむどの)に帰れ」

「えっ、大蛇、何其れ笑えない…」

「笑い事じゃ無えから言ってんだよ!」

 大蛇の大きな声に、巫王の抱く赤子が少し愚図り出した。

「帰って来た途端に泣かせるなんて、駄目な父上だねぇ」

 綾は大蛇の怒りに気付かない振りで、赤子に語り掛ける。其れが、火に油を注いだ。

「だったら、神殿に帰って来んな。俺は夫じゃ無くて従者(ずさ)だったらしいからな。女御館で過ごすのも可笑しいだろう」

 言い捨てて荷馬車を走らせた大蛇に、巫王は深く溜息を吐いた。

「大蛇!」

 綾が慌てて声を掛けるが、時既に遅し。荷馬車は走り去り、後には沈黙だけが残った。

「兎に角…中に入りましょう」

 赤子が冷えてしまう、と亜耶が言い出すと、当然の様に綾も付いて来る。巫王が続くのを、亜耶は何故と云う目で見ているが、険しい其の表情に何も言う事は無かった。

 女御館に入ると、何故か御館全体が温まっている。亜耶の間の布連を開けると、其処に大龍彦(おおつちひこ)が居た。

「あら大龍彦、水鏡(みずかがみ)を見て居て呉れたの?」

 有り難う、と大龍彦には素直に謝意を示す亜耶に、巫王の眉間の皺は深くなった。

「綾、何で神殿に帰らなかった」

 大龍彦は自分の(いも)に問い掛け、大蛇の怒りが分からなかった訳じゃ有るまい、と続ける。

「神殿には、大蛇が泊まるって…」

 普段は綾の言いなりの大龍彦が、其れを聞いて怒りを顕わにした。

「今日、お前が遣るべき事は何だった?大蛇の邪魔をする事か?大蛇の代わりに八津代を待つべきだっただろうが!」

「だって、亜耶が…」

「亜耶に諭すのも、お前の役目だ。いい加減、妹背(いもせ)の間に入るな」

 抑え込んだ大龍彦の声が、亜耶に先程の大蛇を思い出させる。夫では無く、従者。確かに大蛇はそう嗤った。

「綾、私は羽鳥からすら直接赤子を受け取ったよ。何と喜ばしい事か、とそう思い乍ら」

 静かな巫王の声が、亜耶の間に響く。此方も怒りを含んでいて、綾は言い返す事が出来ない。

「大蛇が亜耶の為に如何に尽くして来たか、其れを当たり前と享受して蔑ろにしたお前達には、分からないのだろうな」

時記(ときふさ)も怒ってたぜ。亜耶は大蛇に甘え過ぎだと」

「…時記兄様まで?」

 ああ、と答えて大龍彦は、大蛇が人の身に落ちた理由をもう一度考えろ、と亜耶に告げた。

「永遠を有限にしてまで、お前を選んだ。その愚弟(おろと)の心を、此れ以上傷付けないで呉れ」

「………」

 そう言えば、産屋から出て一度も大蛇に声を掛けて居無い、と。此処で亜耶は、やっと気付いた。いつも隣に居るから、其れが当たり前だと信じて。真逆、大蛇が女御館に帰る事を拒むなんて、亜耶は思いもしなかった。

「亜耶、ごめん。僕は亜耶が子を生んだ事が嬉しくて…」

「お前はいつも、大蛇を二の次にする。亜耶の夫は、大蛇だ」

 心当たりが幾つも有ったのか、綾は大龍彦の言葉に唇を噛む。亜耶はと云えば、大蛇に何と言ったら良いのか思い付かず、ただ腕に抱いた赤子を見詰めて居た。

「亜耶、闇見はもう、禁じられて居無いだろう」

「大蛇の心を、覗いて良いのか…」

「言い訳をするな。今は、大蛇に寄り添いなさい」

 巫王の後押しを受け、今は神殿に居る大蛇に亜耶は意識を向ける。(くりや)に寄ったのか、大蛇は酒を飲んでいた。愛しいと言われた事が無い――其れが、最初に聞こえた声だった。虚しい、悔しい、哀しい。大蛇の心は、負の感情で満たされて居る。

 子が生まれた喜びは、亜耶に因って打ち消された。若しかしたら、亜耶は千年目の巫女では無かったのかも知れない。亜耶には、別に勾玉が認める男が出て来るかも知れない――。

「大、蛇は、酒を飲むのね」

「ああ、昔から好きだぜ」

「私の前では、飲んだ事…無かったわ」

「お前が酒を好まないからだろう。酒飲んでんなら今宵は預かる。綾、お前は(みお)の間で反省でもしてろ」

「大龍彦、あの話は…」

「こんな時まで自分の心配か。お前を女にしなけりゃ良かったか?」

 大龍彦は、大蛇と同じ声で嗤って出て行った。巫王も、自分の御館(みたち)に帰ると言う。酷く傷付いた顔をした綾と茫然とした亜耶が、女御館には残された。

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