百三十四、霊気
水鏡が揺れたのは、昼餉も終わって皆が寛いでいた時だった。直ぐに澪が反応し、亜耶の姿を見付ける。いつも通りのんびりと話をする雰囲気では無いのは、亜耶の表情で知れた。此処最近では珍しく、亜耶の様子が溌剌として居る。
「澪、私此れから産屋へ行くわ。真耶佳と月葉に宜しく」
「えっ、ええ!?大丈夫なのですか!?」
「大丈夫よ、じゃあ急ぐから」
水鏡は、其れで静まって仕舞った。きっと大蛇は亜耶と共に産屋へ行くだろうし、巫王は間に合ったのかどうか。水鏡の向こうには誰か残って呉れるのかすら、亜耶は告げて行かなかった。
「澪?」
也耶を抱いた侭茫然として居る澪に、真耶佳は胸騒ぎを感じたのだろう。如何したのかと目が言って居る。
「亜耶さまが、此れから産屋へ向かうと…」
「まあ、お父様はお着きになったのかしら?」
「分からないです…。ただ向かうと、其れだけでしたので…」
「大蛇さまは何て?」
澪が首を横に振ると、真耶佳は溜息を吐いた。我が妹姫ながら、呉れる情報が端的過ぎる、と。大蛇を水鏡に映さなかったのは、亜耶の性格上態とだろう。若しかしたら、先に馬車でも用意する様言い含めたのかも知れない。其れだけ、女御館から産屋は産女の足では遠いのだから。
「お父様がお帰りになってから、十日よね…来る時も十日掛けたと言って居たわ」
「そうだね。でも帰路はもっと急ぐと、小埜瀬さまが張り切って居られた。馬車も軽くなった事だし」
「もう着いた…かしら?」
「着いたなら着いたで、水鏡で知らせて来そうな気もするけど…」
「月葉、何か見えて?」
真耶佳が月葉に矛先を向けると、月葉は言い辛そうに亜耶が目隠しをして居る、と返して来た。
「ただ、巫王様はまだ杜へはお帰りになって居無い様で…」
舟を走らせている様子が見えます、と月葉は答える。真耶佳と澪は顔を見合わせ、時記は何か考え込んで居る様だ。
「如何したの、時記兄様」
「いや…何だか亜耶が、大蛇を軽んじている様な気がして」
「どう云う事…?」
「大蛇に取って亜耶は、子が居なくても愛しい妹だ。でも亜耶は今、子の方だけを向いているんじゃ無いかと思ってね」
不器用な子だから、亜耶は、と。時記は多くを語りたがらなかったが、何か懸念がある事は澪にも理解出来た。
突如として也耶が泣き出したのは、遣り取りから四半刻を少し過ぎた時だった。張り叫ぶ様な泣き声に、澪は慌てて抱く腕に霊力を込める。也耶が不機嫌で泣くと、硯すら飛ばして仕舞うから。
「澪、いつもと違う」
同時に霊力を纏おうとした時記が、何か異変を感じて澪を止めた。宙を舞う物は無いし、也耶も不機嫌とは違う顔。
「お生まれに、なった様ですね」
月葉が水鏡の方を見て、ぽつりと言った。見れば水鏡は此れまで見た事の無い程の霊気を放ち、表面も揺れている。
「誰か…向こうに?」
「居りません。お子の霊力が、放たれたのかと」
少し水鏡から離れた皆の中で、也耶だけが霊気に手を伸ばして居る。言葉にならない言葉を叫びながら、必死で手を伸ばす様子に、時記と澪は顔を見合わせた。
「少し、近付いてみます…」
澪が言い、水鏡の方へと也耶を連れて歩を進める。すると霊気は渦を巻き、赤子程の手の形になって也耶の手に触れた。
「ああ、だあ」
禍つ霊では無い、其れは分かる。也耶は笑い乍ら霊気の人差し指を握り、離さない。
「や、か、…」
也耶の何かを必死で絞り出す声は未だ続き、澪にある一つの考えが浮かんだ。
「もしかして也耶、此の方が、貴女の定められた人なの?」
「ふ…!」
澪が言うが早いか、也耶は澪に満面の笑みを向ける。そう、と澪は微笑んで、時記を振り返った。すると時記も寄って来て、確と水鏡から伸びる手を見定める。
「もう也耶を、愛して呉れて居る様だね」
何の悪意も無い、優しい霊気。其れを近くで感じて、時記は嬉しい様な淋しい様な不思議な心地になった。
暫くして霊気は薄れ、也耶の握る手も消えて行く。
「うっく、ああ…」
也耶は影を追う様に泣いて手を離さないけれど、水鏡は冷酷にも普段の姿を取り戻した。
そうして今度は、誰かが揺らす波紋。澪は慌てて手を翳し、水鏡を繋ぐ。
「――大龍彦様!?」
向こう側に居たのは白い髪に赤い目の守神、大龍彦だった。
「ああ澪、驚かせて悪い。水鏡が繋がった方が、良いかと思ったんでな」
「あの、亜耶さまは…」
「独りで産屋に向かったと聞いて、綾が追って行った。大蛇は、八津代待ちで少し前まで白浜に置いてきぼりだったぜ」
複雑な表情で、大龍彦は女御館の状況を説明する。少し前に産屋の方角から、邑に強い霊力が押し寄せた事。慌てて女御館に来てみたら、水鏡に霊力の一部が纏わり付いて居た事。
「亜耶は、やっぱり大蛇を蔑ろにしたんだね」
「時記さま…」
「まあ、そうとも言えるな。大蛇も思う所は有った様だ」
「当たり前だよね」
時記は、少し怒って居る様だった。子生みの時に無力な父に、更に現実を突き付ける。そんな妹姫の有り様に、大蛇に甘え過ぎだ、との言葉が飛び出す。穏やかな時記にしては、珍しい事だ。
「まあ多分赤子は、八津代と同等か其れ以上の楼観をもって生まれて来たんだろうよ。時記の望む長老の在り方を、現実に出来るかも知れねえ」
「あの…翡翠の色と霊力は関係が有るのですか?」
「時記のは神人に近い白だが、其の分霊力は強い。八津代のは見ての通りだ。半端な色が、一番頂けねえ」
澪の疑問に答え乍らも、大龍彦も少し言葉尻が荒い。時記に同調している、と見るのが自然だろう。
「…亜耶さまは、怒られるのですか?」
少し突発的な澪の質問に、時記と大龍彦はふと我に返った風情だ。大蛇次第だ、と大龍彦は言う物の、多分彼も綾と一悶着有るのだろう。澪は不安を残し乍ら、時記と大龍彦を交互に見た。