百三十三、男親の虚しさ
亜耶の闇見の話を伝え聞いた真耶佳の喜び様は、大層な物だった。水鏡越しに、亜耶に何度も本当かと問い掛けてくる。看取る事は出来ないと知って居ても、何の柵も無く杜で共に生きられるのは嬉しい事なのだろう。
「真耶佳、落ち着いて。大王も私も、嘘なんて吐いて居無いわ」
「だからこそよ!」
おっとりとした真耶佳には珍しい程、其の声は弾んでいる。横に居る澪も、驚いて真耶佳を見詰めて居た。
「真耶佳さま、はしゃぎ過ぎです」
見かねた月葉が後ろから声を掛けるが、真耶佳の耳には届いて居無い様だ。興奮状態は腹の子に悪い。亜耶もそう諫めるのだが、真耶佳は聞かない。ぐいぐいと身を前に乗り出して、腹を圧迫しているのではと心配になる程だ。
「其れで真耶佳、お父様は無事にお出になられた?」
どうにか真耶佳を落ち着かせようと、亜耶は話題を変える。巫王が宮を出た時刻に依っては、亜耶の子生みの日の予定に不調和が生じるからだ。
「ええ、遊佐を皆にお披露目して、直ぐに」
「私、厨の族人の真名を此度初めて知りました…」
二人居る事も知らなかったのです、と澪が申し訳無さそうに口添えする。そう云えば、亜耶は真耶佳にも澪にも供人の人数しか伝えて居無かった。
「其れは私にも責が有るわね。御免なさい」
「ねえ亜耶、何故輿入れの時、厨や洗い場の者まで付けたの?」
私は妻籠に入る予定だったじゃない、と真耶佳はずっと疑問に思って居たらしい事を口にする。其れに対する亜耶の答えは簡単だった。
「妻籠の内でも、族ごとに姫の世話をせねばならないからよ」
「そう、なの…」
「后になって宮を与えられるなんて見えて居たら、もっと大所帯で送り出したわ」
真耶佳が妻籠に興味を持ったのは、香古加の所為だ。衆目の元で虐げられて居たのなら、誰か止める者は居無かったのか。そんな風に思ったのだろう。
「香古加は、可愛いわね。杜に来たばかりの頃の澪を思い出すわ」
亜耶が試しに言ってみると、真耶佳は矢張り首を縦に振る。可愛いのに、小忠実に何でも熟すのに、自信が無い。
「私も…嘗ての自分を見て居る様で、放って置けないのです…」
確かに香古加は、澪ほど美しくは無い。けれど何かが似ているのだ、と月葉も言い出す。
「心持ち、でしょうか?香古加はよく働いて他の側女達にも認められて居るのに、自分を此の宮に相応しいと思って居無い様です」
「時記さまの湿布を舎人に届けるのも、自分から行くと言い出して…」
本当によく動くのですけどね、と澪も月葉に賛同する。
「…真耶佳の子生みが終われば、香古加も馴染むわ」
「え?」
「子生みは一月も先では無いわよ。其の前に香古加の櫛と手鏡が戻って来るのだけれど…」
其処からは、月葉を含めた四人での内緒話。急に静かになった水鏡の周りに宮の面々が視線を送るが、熱心な秘め事の相談は続いた。
其れから、十日後。亜耶は急に産屋に向かうと言い出した。慌てたのは大蛇だ。巫王は未だ戻らないし、何をすれば良いのかも分からない、と。
「産屋に着く頃におしるしが来るから、大蛇はお父様が戻ったら一緒に荷馬車で来て」
「荷馬車って…何載せるんだ?」
「荷台に私と赤子が乗るのよ。杜には小さな馬車しか無いでしょう?」
呆気に取られる大蛇を背に、亜耶は水鏡で産屋に行く事を伝えて居る。慌てた澪の声が聞こえたが、亜耶は大丈夫だと笑って応えた。
「じゃあ大蛇、頼んだわね」
手早く襲を羽織った亜耶が、邑の最奥に在る産屋を目指して出て行った。残されて仕舞った大蛇は仕方無く厩に向かい、亜耶の望む荷馬車の準備を頼む。
其れから白浜へ行き、綾と大龍彦に事の顛末を話すのだった。
「じゃあ僕は、産屋に向かうよ」
「え、おい綾…!?」
「大蛇は其処で待って。四半刻もせずに八津代も小埜瀬も帰ってくるから」
同じ音の名を持つだけあって自由な互いの妹に、大蛇と大龍彦は顔を見合わせる。
「まあ、亜耶も独りでは心細いかも知れないしな…」
「だったら兄者と綾に、馬車頼みゃ良いだろ…」
「きっと、子生みの折には男親なんてそんなもんだ…」
大龍彦の脱力した言葉に、大蛇は呻き声で応えた。確かに産屋は男子禁制。しかし時記の様に、産屋の前で待たせて呉れても良いのでは無いか。海育ちの双子は揃って溜息を吐き、陸の方向を見詰めた。
大蛇が大龍彦の溜息の理由を知るのは、もう少し後の事。
綾の言った通り、巫王と小埜瀬は舟を走らせて帰って来た。白浜に乗り上げるなり巫王は、間に合ったか、と駆け寄って来る。
「八津代が戻ったら、直ぐに産屋に連れて来る様言われてる。行くぞ」
「わ、分かった。小埜瀬、後は頼んだ!」
大蛇と巫王は厩に駆け込み、用意された荷馬車に飛び乗った。女御館から産屋まで、歩けば四半刻、馬車ならその半分だ。産屋が見えてきた時には既に、綾が扉の前に佇んで居た。亜耶はもう中に居る様子。
荷馬車が産屋の手前に乗り付けると同時に、産屋から大きな霊力の迸りが見えた。
「亜耶…!」
大蛇が産屋に駆け寄ると、綾が其れを留めた。大丈夫、と短く言って。
「おしるしで頭が出てね、安産だよ。今の霊力は、赤子の物」
綾の言葉通り、産屋の中からは元気な産声が聞こえて来る。すると慌ただしく産婆が産屋の扉を開け、産湯を使わせに出て来た。
「あら、大蛇さま、元気な男子ですよ」
愛想よく言った産婆は手早く赤子の体を洗い流し、握り締めていた翡翠を手に取った。
「おお、楼観ではないか…!」
いつの間にか馬車から降りていた巫王が、翡翠を見て言う。強い霊力を持つ子だ、と感心しつつ翡翠を受け取り、赤子の小さな右耳に其れを穿った。
男子の翡翠は女子の耳飾りとは違い生まれ持った物の為、穿つに痛みは伴わない。巫王が手心を加えず耳から翡翠を垂らした事で、赤子は初乳を貰う為に素早く産屋の中へと戻った。
「八津代、済まねえな」
「いいや、構わん。其れにしても、大蛇の赤い目を引き継ぐとはな」
「…後でじっくり見てみる」
産屋が静かなのは、亜耶が初乳を飲ませている所為だろう。綾が安産だと言ったから、安心して待って居られる大蛇と巫王だった。