百三十、奥の神山
大王は朝餉が終わると、早速桜が見たいと言い出した。真耶佳も澪も其れは同じなので、月葉を従えて皆で階を下りる。階を下りただけなのに、東の方角には既に聳える大木が見えた。
天つ神は日の神。日が昇る方角に植えるのだ、と亜耶が言って居たのを、澪は思い出す。そして、皆で緩い丘を登って桜に下に立てば、一人二人の腕では回らない程の立派な山桜。見上げる一同は、言葉を失っていた。
「花咲く頃には、皇子さまが居られるのですね…」
時記が感慨深く言うと、大王は真耶佳を抱き寄せ破顔する。
「神宿る木から産屋まで、皇子が此の世に生まれ出づるに最高の道標よ」
大王はさも嬉しそうに言い、真耶佳と笑い合った。此れから来る真耶佳の子生みへの、弾みを付けた形だ。
「ああ、そう言えば産屋は何処ですかな?」
巫王が、亜耶に護りの紋を書けと言われた事を言訳すると、一行は丘を下りて産屋の前に立った。亜耶が水鏡に紋を書いて寄越すのはよく見るが、実際如何遣るのか。澪は興味津々だ。
直ぐに巫王が扉一面に護りの紋を指で書き、其れは青白い光として浮き上がる。光は軈て産屋全体を包み、徐々に輝きを失った。
「此れで良い」
真耶佳の子生みと言わず、此の先誰の子生みの時にも浮き上がる、と巫王は言った。又しても付いて来られないのは小埜瀬で、今風が吹いたか、と小さな声で零す。
「あと、無いのは梅かしら?」
真耶佳が悪戯っぽく言い、梅など見た事は無いだろう、と巫王に窘められた。真耶佳は陸で見た事が有ると頑張るが、あの一帯に在る梅は植樹された物だ。宮に持ち込む訳には行かない、と巫王が突っぱねる。
「真耶佳、梅が望みなのか?」
大王が割って入り、他の宮から植え替える分には構わないかと巫王に聞いた。
「他の宮から…ですか」
巫王は少し思案し、花が咲く前なら良い筈だと返す。此の返答で真耶佳の宮は一層煌びやかになるのだが、今の真耶佳は未だ知らない。
「しかし八津代兄、あの桜、陸に渡る舟に乗せた時は今朝運んだ時より小さくなかったか?」
「ああ、舟に乗る大きさだったな」
「何故…」
「杜の男が四人集まると、山津見神様がご存じだったのだろう」
山津見神と聞いて、小埜瀬は不思議そうな顔に成る。大王と真耶佳も、澪も同じだ。平静を保っているのは、月葉、時記と巫王と云う杜の神居に馴染んだ者ばかり。
「真耶佳さま、澪さま、杜の神山には二つの役割が有るのです」
月葉が、丁寧に説明を始める。那智までの綿津見神様の神山、其の先には双子神たる山津見神様の奥の神山。大蛇が行き来しているのは、奥の神山だと。
「山の神と云えば、石長姫とお思いでしょう?杜の山の神は、違うのです」
美しいものを愛で、美しい山木に活力を与える神ですわ、と月葉は笑った。
「では揃いも揃ってお美しい族人が神山に入るを許されるのは…」
「山津見神様の神山だから、かも知れませんね」
澪の疑問にも答えて、月葉は話を終わらせる。此れ以上は真耶佳の体に障る、と皆を宮へと急き立てるのも、月葉の仕事。
「真耶佳さま、各務に頼んで置いた件、収まりした」
「そう」
真耶佳が何かを察し、火瓶の側へと戻ろうと皆を誘う。大王も、今日は異世火が飛んでいないのを忘れて大木に見入って居たらしい。途端に襲だけでは寒さを感じたのか、一行は宮に戻る事と相成った。
宮に戻ると、香古加が涙を必死で隠して居た。各務はその肩を抱いて、大丈夫、と慰めている。
「真耶佳さま」
主の姿を見付けると直ぐ、各務は香古加を喬音に任せ、火瓶の側に座った真耶佳に耳打ちする。真耶佳がまあ、と言って眉間に皺を寄せるのを、男達は不思議そうに見て居た。
各務が去ると、真耶佳は隣に座った大王に頼み事をする。
「大王、揚羽姫を妃から降ろして下さいませ」
真耶佳にしては、はっきりとした物言い。其れに大王が動揺する間も無く、真耶佳は二の句を継ぐ。
「妃から降ろし、全ての強奪品を回収して頂きたく存じます」
「ま、真耶佳さま、櫛などは折られて仕舞ってもう捨てられて…」
「大丈夫よ、香古加」
真耶佳は香古加には優しい笑みを向け、全部取り返せるかは分からないけれど、と付け加えた。
「いいえ、真耶佳さまのそのお心だけで充分です…っ」
今度こそ泣き崩れて仕舞った香古加に、側女達が寄り添う。真逆妻籠の中の女の世界が、其程までとは思って居無かったのだろう。真耶佳の為に集められた側女達の中に、香古加は一石を投じた。
月葉の言っていた面白い事とは、此れだったのだろうか。澪は宴前、月葉に耳打ちされた事を思い出した。
「月葉…」
「いいえ、未だ未だですわ」
澪の言葉を遮り、月葉は艶然と笑って見せる。もっと面白い事とは、と澪が思案する内、大王が決断を下した。
「揚羽は我が后真耶佳に危害を加えようと、香古加を使った。香古加の機転で難は逃れたが、揚羽のした事は変わらない」
早急に、手配する。そう約して、大王は上に立つ者の顔になる。其の有様に、宮内にぴんと張り詰めた空気が流れた。
小埜瀬には見慣れた顔、巫王には初めて見せる大王としての顔だった。そして傍らに在った文机から木簡を取り、筆で何事かを書き付ける。
「済まぬが時記、門の前に居る我が従者に、此れを渡して来ては貰えぬか」
「はい、大王」
時記が足早に出て行き、大王は此処でのいつもの顔に戻った。香古加は茫然とし、他の者は伸ばして居た背筋を和らげる。
そんな空気の中、大王は澪に水鏡を繋ごう、と言い出すのだった。