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魚の杜の巫女  作者: 楡 依雫
水鏡篇
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百二十九、生魚

 頃合いを見計らってだろうか、賑やかな乳母(めのと)()月葉(つくは)が姿を現した。滅多に覗きに来る事は無いので少し騒ぎ過ぎたか、と押し黙った面々に、月葉は顔を綻ばせる。

大王(おおきみ)真耶佳(まやか)さまが、お目覚めになりました。朝餉も届き始めて居りますよ」

「まあ、もうそんなに時間が経って居たのですね…!」

側女(そばめ)達も来ていますから、皆様もお出で下さいまし」

「月葉…煩かったですか?」

 (みお)が心配して声を掛けると、月葉は首を横に振った。

「いいえ、此方は静かな物でした。大王も真耶佳さまも、心ゆくまで眠られた様ですよ」

 ほっと息を吐く澪に、時記(ときふさ)が微笑み掛ける。確かに小埜瀬(おのせ)の声は大きかったが、乳母の間の壁を通る程では無かった様だ。

「今日は、生魚だね」

「はい。井波(いなみ)が久し振りで歓喜に手が震えたと申して居りました」

「井波は未だ居る?」

「ええ、側女達に生魚の食べ方を教えて居ります」

 黙って聞いて居た巫王(ふおう)と小埜瀬は、此方ではそんなに生魚が稀少なのかと認識を新たにした様子。井波にも礼を言わねば為らないし、と巫王と小埜瀬は先に乳母の間を出た。

「井波、舎人(とねり)には朝餉を遣ったのか?」

「大王より先に食べさせる訳には参りませんので、今待たせて居ますよ」

 敷物の上に薄く削がれた魚の切り身を並べて居た井波は、苦笑半分に巫王に答える。幾ら手柄を上げたとて、料理に手を付けるのは大王が一番先。此処でも宮と(もり)の違いが浮き彫りだ。

 其処に、(きぬ)を整えた大王と真耶佳が起きて来た。

「何だ、井波。猪狩(いかり)千々岩(ちぢいわ)には先に遣っても良かったのだぞ?」

「えっ…(あかとき)(きみ)?」

 意外な大王の言葉に、反応したのは真耶佳だった。杜では祝われた順、手柄を上げた順に食事に手を付ける事が許されるが、まさか宮でまで。井波の表情からも、真耶佳と同じ思いが滲んで居た。

「我もな、全てを優先される事には違和感が有ったのだ。矢張り手柄を上げた者を立てるべき、とな」

「何とお心が広い…!」

 井波が感極まった様に口に出すと、側女達も皆頷く。

「では私達は、舎人の方々が食するまでお待ちしましょうか」

 各務(かがみ)が言い出すと、井波は其れを止める。一番美味しい捌き立ての時に、皆に食べて欲しいと。

「私は急いで、猪狩と千々岩に朝餉を出して参りますので…!」

「井波、其方は自分の朝餉も持って戻るのだぞ。巫王どのとの食事は、久方ぶりだろう」

「はっ…はい!有り難う存じます、大王!」

 先に手を付けて下さい。そう言い残して井波がばたばたと階を駆け下りて行き、皆は敷物に広げられた色取り取りの魚や貝を見た。澪と時記もいつの間にか出て来ており、澪の目は纏向(まきむく)の宮に在っては珍しい生魚に釘付けだ。

「皆、座りましょう。あ、井波の場所は空けてね」

 宮ではいつの間にか、大王を囲んでの食事が側女達にも受け容れられて居る。特別な日、と認識するには良いのだろう。

「先ずは粥からね」

 真耶佳が言うと、各務が粥の器を空けた。

「まあ、帆立で御座いますよ!」

 燻油漬けでは無い生の帆立を使った粥は、杜で食べたあの日と同じ香り。其の香を聞いて澪は嬉しそうに笑い、亜耶の気遣いを時記に耳打ちした。

「嬉しい事が沢山です…!」

 澪が、本当に嬉しそうな顔で粥の碗を受け取る。一つ目は時記に渡し、二つ目は自分の両手の中に。

「時記兄様と食べられて嬉しいわね、澪」

 真耶佳も微笑ましくそんな澪を見詰め、時記も話に聞いて居たのか笑顔で澪に寄り添って居る。

大蝦(おおえび)の載っていない皿は私と小埜瀬の分だ。他は皆、大蝦を楽しんで呉れ」

 巫王が言って皿を受け取った所で、井波が息を切らして戻って来た。小埜瀬と側女の間に空いた隙間に、井波は手招きされて収まる。

「井波、其方の分の粥は有るのか?」

「後で残り物を頂こうかと…」

「まあ、井波。器にはまだ残りが有りますよ」

 月葉が井波を窘め、大王の膳に加わる様示唆した。其れでは…と言って、井波は器から粥をよそって貰う。

「さ、魚醤(うおひしお)は此方。此の時期の魚は、脂が乗って美味しいのですわ」

 月葉が魚醤を皆に配ると、井波に目配せした。

「少し野蛮かも知れませんが、手で摘まんで魚醤に潜らせて下さい。色々な魚が有りますから、お好みに合う物をどうぞ」

「野蛮も何も、先日の餅もそうした。其れより生魚を食すなど、外遊の時以来よ」

「まあ、暁の王ったら」

 真耶佳は餅の事を覚えて居たのか、と領巾(ひれ)で口許を覆う。殆どは真耶佳の手から食べていたが、大王自身も手を伸ばして居た、と。

「此れは…何だ?」

 大王が手にしたのは、半透明の白い大蝦。皮を剥かれているので、直ぐには判別出来なかった様だ。

「其れは、時記の好物ですよ。どうぞ召し上がって下さい」

 巫王が答えると、察しの良い大王の事。直ぐに此れが大蝦か、と口に含んだ。

「甘みと食感が、品が良い。魚醤にも馴染んで居る…!杜に居を移せば、我も日を気にせず食べられるのか…?」

「そうですね、季節によって身は痩せますが、綿津見神様(わたつみのかみさま)のお許しの有った時には」

 大王と巫王がとんとんと話を進めて行く物だから、真耶佳以外は取り残されている。大王が、居を移すとは。そんな空気が宮を一瞬静かにした。

「ああ、時記、澪、我も退位後は杜に入れる事になった」

 昨夜巫王どのから聞いた時には、嬉しくて酒が進んだ、と。大王は悪びれもせずに言う。

「月葉には、見えて居たのだろう?」

「昨夜、見えました」

 そうかそうか、と大王は満足げだ。そしてふと真顔になり、側女達の顔を一人ずつ見る。

「どうか我が皇子(みこ)の后にも、其方等の忠を捧げて遣っては呉れまいか」

 大王直々のお達し。勿論側女の中に厭だと言う者は無く、皆笑顔で応えた。ただ、真耶佳も澪も月葉も、杜に帰ってしまうのは淋しい、と。喬音(たかね)がひとつ、涙を溢した。

「何、十五年も先の事よ。今は誠心誠意、真耶佳等を頼む」

「はい…」

「しかし、どの魚も美味いのう。皆、巫王どのと井波に礼を申すのだぞ」

 少し和らいだ宮の空気に、側女達が思い出した様に礼を言う。井波は居心地悪そうに、普段の料理の美味さも褒められて顔を赤くした。

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