百二十八、初孫
時記の御館で深酒をした巫王は、行きの道中と同じ薬湯を飲まされて漸く目が覚めた。朝餉の前に、桜を植える。其れを小埜瀬に伝えて置いた為、念の為と薬湯を淹れて呉れたらしい。
巫王は亜耶の言った通りの青白橡の衣を着て、沓と袴の裾を泥から守る為に藁を巻いた。小埜瀬も同じ様に、藁を巻いて居る。こんな準備をして呉れたのは誰だ、と御館を出れば、朝餉の仕込みを終えた井波だった。
「私も杜の者故、桜を植えるお手伝いをしようかと」
「有り難い。大蛇は一人で持てると言ったが、あれは四人掛かりの木よ」
「大蛇とは?」
「ああ、聞いて居無かったか。亜耶の夫だ」
井波が旅立ってから、亜耶は婚ったのだ。巫王は其れを、すっかり失念して居た。時を同じくして時記が宮から降りて来て、四人は荷馬車の置かれた門の直ぐ脇に向かう。
「大王には許しを得ているのだな?」
「ええ、父上」
念には念をと確認する巫王に、時記は和やかに答える。そして荷馬車に乗せられた桜の苗を見て、目を瞠った。
「時戻の術が掛かって、此れですか…?」
「うむ、そうなのだ。大蛇が自分の一抱え分にしたらしくてな」
「大蛇の一抱えでは、陸の男達も大変だったでしょうに」
目を瞠った次に、時記は笑い出す。どうにも人里に馴染む気が無いのか、大蛇のする事はいつも豪快だ。
「でも、まあ、四人居れば…」
小埜瀬は手力に自信が無いと言い、尻込みをして居る。なので宮をよく知る時記が一番前を行き、井波、巫王、小埜瀬と順に桜の苗を支える事にした。
「穴は既に掘ってあるから、其処まで真っ直ぐ向かおうか」
「はい、時記さま」
井波が直ぐに応じて、桜の行き道は決まる。負担の多い中程に巫王が居るので、気を遣った形だろう。
「小埜瀬さま、少し登るので、一時後ろが重くなります」
「わ、分かった…!」
しかし登った距離も極僅かで、桜は時記の掘った穴に着いた。次は、どう立てるか。根を前に持って来たので、時記は穴に入らざるを得なさそうだ。
「時記さま、穴の淵から送りましょう」
井波が、穴に入ろうとした時記を留める。井波は足早に枝の側に移動し、小埜瀬と最後尾を交代した。そして、徐々に苗と呼ぶには大きい桜は在るべき場所へと運ばれて行く。
小埜瀬も顔を真っ赤にして井波を手伝い、巫王も桜を斜めにし乍ら丘の頂点へと送る。倒さずに、傷付けずに。天つ神への捧げ物は、細心の注意を払って時記の掘った穴に収まった。
すかさず時記が桜を倒れない様に支え、他の者は丘の上に置かれていた鋤で桜の周りの余白を埋める。
「水を持って来ます」
井波が走って厨へと消え、大きな水瓶を肩に載せて戻って来た。そして少しずつ水を遣れば、桜は神山に生えていた時の大きさを取り戻していく。
「大蛇…こんな大きいのを頂いたのか…」
「成る可くでけえの、とは言いそうだけど…」
巫王と時記は、大蛇の人柄に思いを馳せて桜を見上げた。此れならば、春になったら見事な白い花が咲くだろう。もしかしたら、大王の記憶の中に聳える桜とも近いやも知れない。
井波は、早くも春が楽しみになった、と言った。
半刻ほどしたら宮に朝餉を持って行くと言う井波と別れ、巫王と小埜瀬は一足早く宮に招かれた。也耶がもう目を覚まして居て。澪と共に待って居ると。
「大王は昨夜、物凄く嬉しそうに戻って来られたよ」
「おお、そうか。お喜びになって呉れたか」
「未だ大王はお休みだから、乳母の間に行こう」
乳母の間と云うのが今の時記と澪の住処だと云うのは、水鏡で聞いて知って居る。巫王と小埜瀬は起きて来た月葉に軽く挨拶をして、時記に付いて行った。すると、音を良く隔てる壁で囲われた、広々とした間に通される。
「お義父さま、小埜瀬さま、お早う御座います」
入るや否や寝座に腰掛けて居た澪が、立ち上がって挨拶をする。其の声は迚も元気で、大王を起こさないかと巫王は案じた。しかし、赤子の声も通さぬのが乳母の間だと時記に言訳され、二人共安堵して床に陣取る。
「也耶、大きくなったのでは無いか?」
「本当に時記似だなあ」
二人は口々に美しくなると也耶を褒めそやし、巫王は袴の囊の中に入れていた布袋を取り出した。
「此れからも度々有る、と亜耶が言ったからな」
巫王は布袋から月長石を一つ取り出し、也耶の左耳に近付けた。すると、並べて初めて分かる程度の濁りが也耶の耳の月長石には有る。
「こうするのだそうだ」
巫王は言って、也耶の耳飾りに手に持つ月長石を添わせた。一瞬にして巫王の手の中の月長石が白砂に変わり、掻き消えていく。代わりに也耶の耳飾りには、輝きが戻っていた。
「父上、どう云う事でしょう…?」
「うむ、亜耶の話なのだがな。也耶が真耶佳に降り注ぐ黒い針を祓った事が有るのだろう?」
「あ、はい。大王がお留守の晩に、真耶佳さまの寝所にお邪魔した時に…」
「魂込をした月長石の霊力を、其の時に放っていたらしいのだ」
亜耶は其れを知り、綾に月長石集めと魂込を頼んだ。也耶は皇子の一番近くに居る女子として、此の先僻みに晒される。身を守る術は、多い方が良い、と。
「魂を移せば、月長石は勝手に亜耶の元へ帰る。其れをまた魂込して、水鏡で送ると言って居たぞ」
未だ也耶は、霊力を使うべき時が分かって居無い。其の間は、杜から月長石を送る、とは亜耶の言伝だ。
「亜耶には、いつも負担を強いているね…」
「今は子生み前で、闇見は禁じられて居ると昨夜は仰有って居ましたが…」
「なに、子が生まれればいつもの亜耶だ。何て事は無い、と綾の真似をして豪語して居たぞ」
ほら、残りの月長石も受け取りなさい、と。巫王は布袋を、澪に差し出した。澪は有り難く受け取って、後で亜耶に礼を言わねば、と時記に耳打ちする。
一人付いて来られない小埜瀬は、消えた月長石が杜に帰って居るとは中々信じなかった。