百二十七、澪の喜び
水鏡が揺れるのは、分かって居た。だから亜耶は、夕餉を終えてからずっと水鏡に付きっきりだ。大蛇も、今日は何も言わない。亜耶の体調が、目に見えて良いから。
長達の宴が終わる刻限から、暫く経った頃。澪が水鏡を揺らして来た。其の顔は嬉しそうで、巫王が上手く遣ったのだと亜耶に知らせる。
「亜耶さま、私にも杜の血が流れて居ました!」
弾んだ声で、前置きも無く。澪は偶然は必然とは本当なのですね、と顔を綻ばせて居た。
「真耶佳さまと亜耶さまと、私は又従兄弟だそうです!お義父さまが、教えて下さいました!」
「まあ、澪。私達、他人の空似の汚名が雪がれるわね」
「はい!あの、亜耶さまは此の事は…」
「闇見を禁じられて居るもの、知らないわ。詳しく教えて」
澪は自分の祖母が陸の姫だった事、其の母が杜の姫だった事などを喜んで話して呉れる。
「一乃鳥姫…その人が私達の大叔母で、澪の祖母なのね?」
「はい!其れに…」
澪が少し口籠もるのを、亜耶は不思議に見詰める。如何したの、と優しく聞くと、澪は嬉しかったのです、と答えた。又従兄弟だった事がかと思えば、少し違う様だ。
「お義父さまが、坐安王に会った事を無理に隠さず話して下さった心遣いが、同じ血の者と認めて下さる様で、嬉しかったのです」
「澪は坐安王を憎んでいるものね、話さないと云う選択肢も有ったと思うわ」
「はい…母と同母弟を、殺めた人ですから」
弔われたかどうかすら、未だに知らないのです、と澪は淋しげに言った。航海から帰った澪に母が子生みで果敢無くなった事、腹を裂いて取り出した赤子も既に息が無かった事。其れを澪に知らせた西の族の者達は、誰も弔いに付いては知らなかったと。
「…祠が、建っているわ」
「え?」
「王子としての順位が低かった坐安王が、人知れず建てた祠。甕棺は、其の下よ」
「あ、亜耶さま、闇見を禁じられて居るのでは!?」
此の位は平気よ、と亜耶は笑う。闇見で無く、不意に降りて来た像だから、と。
「上の王子達と長が流行病で果敢無くなって、坐安王に長の地位が転がり込んだ。其れが、去年の三月の事。澪が、陸に向けて船出した直後の事よ」
「え…」
「坐安王は直ぐに、船巫女の澪を姫と言挙げした。でも、澪は帰らなかった」
そう云う事みたい、と亜耶は澪に言った。坐安王の感情が溢れて居るのね、と。其れが亜耶と共鳴りして、事実を教えて呉れる。
「共鳴りは然程霊力を使わないから、気を遣わないで?」
「坐安王は、納得して帰ったのでしょうか…」
連れ戻されるのでは、と案じる言葉が、澪の口から出て来た。亜耶は、連れ戻される事は無いと断言する。
「坐安王は、澪が幸せだと知ったわ。だから感情が溢れているの」
辛い記憶を話して呉れて、有り難う。亜耶はそう続けた。途端に澪はぽろりと涙を一粒落とした。浄化の雫。今は無理でも、いつか澪は坐安王を受け容れる日が来る。其れを示す雫だ。
「お話ししたのは、時記さまと亜耶さまにだけです…」
澪が、気丈に笑顔を作って言った。
「澪、可愛い私の妹姫、私達を愛して、信じてくれて有り難う」
「お礼なんて…!私こそ、受け容れて頂いて、温かくして下さって…!」
「遠慮は無用よ。只でさえ又従兄弟なのだし、時記兄様の妹でもあるのだもの」
澪の言動から、亜耶達姉妹や時記からの愛を疑った事が無いのが分かる。其れは、亜耶に取っても迚も幸せな事。
「澪の幸せは、私達皆の幸せよ。きっと月葉にも、側女達にも」
「亜耶さま…」
思っても居無い事を言わない亜耶が、優しい目で水鏡越しの澪を見る。会えなくても、大切な妹姫。そんな思いを込めて。
「だから、もっともっと幸せになって頂戴。私も子生みが落ち着いたら纏向に行くと綾に言われたから、其れまでにね」
「亜耶さまも来て下さるのですか…!?」
「ええ、何れね」
嬉しそうに笑う澪に、亜耶まで嬉しくなる。早く会いたい、其の思いは同じだ。
不意に水鏡の向こうが騒がしくなって会話は途切れたが、其れは巫王が大王に伝えるべき事を伝えた証。
「澪、小埜瀬さまを送り出したらもう寝るのでしょう?」
「はい…」
名残惜しくはあるけれど、澪には澪の時間が有る。明日、また水鏡を繋いで良いか。そんな事を聞く澪に、当然よ、と答えて、宴の夜は更けて行った。