百二十六、知己
時記の物となった御館は、至極丁寧に浄められて居た。八反目が居た跡は、もう残っては居無い。ただ。
「八反目は此処で、命を終えたのですね」
階を上りきって直ぐ、巫王は言った。そして其の場所でたん、と一つ足を鳴らす。
「巫王どの…祓い切れて居無かっただろうか?」
「いいえ、澪が思い出さぬ様、地固めをしただけです。綺麗に浄められて居りますよ」
話して居ると、厨から丁度酒が運ばれて来た。結構な量が入りそうな酒瓶に、杯が二つ。大王は酒が好きだが、巫王は一滴も飲んで居ない。余程真面目な話が有るのだろう、と大王も襟を正した。
「悪いな、井波」
「其方、井波と言うのか。今後、我もそう呼ぼう」
「お、恐れ多い…」
「其方の働きには感謝して居るのだ。やっと名を知れた気分だぞ」
井波は照れ乍ら、何処の間で飲みますか、と聞いた。大王は巫王を見、階から直ぐの間を指さした。奇しくも其処は八反目が最期の酒に浸っていた間だったが、巫王は特に何も言わない。
大王と巫王は酒を真ん中に向かい合って座り、どちらからとも無く杯に酒を注ぎ合った。
「一つは善事、一つは禍事なのです」
酒を口に付ける前に、巫王はそう前置きする。亜耶の闇見、其れは伝えなければ為らない事だ。
「聞こう」
大王も巫覡の一族から話が有ると言われれば、或る程度の覚悟は出来て居る。相好を崩して大王は、杯を口に運んだ。
「先ず善事、大王は杜の結界を潜れる様になりました。其れと同時に、真耶佳と共に死後綿津見宮に住まわれる事に為ります」
「死後…?我は既に陵を持って居るが…」
「大王の亡骸は、杜の者として白砂になります。真耶佳もまた然り。陵は、腹の子に譲られるが宜しいかと」
「退位した後、魚の杜で過ごせると云う事か…?」
「其の通りです」
すると大王は、先ずは喜びを口に乗せた。真耶佳と共に年を重ねる、其れが途切れるのが十五年後では短いと思って居たと。
「ただ…」
「何でしょう?」
「真耶佳にも告げてあるのだが、我は真耶佳に最期を見せる気は無い」
「存じて居ります。其処は我が末姫が上手く遣りますから、ご安心下さい」
「今宵、真耶佳に告げて良いか?」
「勿論です。此方の善事は是非、お二人で先の事など話し合って頂ければ、と」
大王があっさりと白砂に成る事を受け止めたのを、巫王は少し驚いて居た。杜の者でも、巫覡だけが白砂になるからだ。例外は羽張と大王しか、巫王は知らない。
「次に、禍事です」
「うむ」
「真耶佳の子は、逆子です。生んだ後、月の忌みも戻りません」
「逆、子…。以前亜耶姫から、難産の卦は聞いて居たが、逆子とは…」
此の時代、逆子は母の命を脅かし、往々にして奪うものだ。亜耶は真耶佳の死を闇見して居無いが、大王の顔色は変わった。
「月の忌みは、我が子を生んだ妃達は直ぐに無くして居る。何故か一人の女に二人目は無いのだ」
「現人神で在られる大王の霊力に、母の器が耐え切れないのでしょう」
「亜耶姫は、真耶佳は少し寝付くと言って居た。本当に其れで済むのだろうか?」
「大王、だから先に善事をお伝えしたのです。真耶佳と共に、魚の杜へ、と」
ああ、そうか、と。大王は大きく安堵の息を吐いた。そして、此方の禍事は真耶佳に伝えない方が良いのだな、と念押しする。
「はい、真耶佳が子生みに怯えたら、守れる命も守れなくなります。終わった後で末姫が告げるでしょう」
「真耶佳は腹の子は皇子だと言った。其れは、違い無いのだろうか?」
「私の卜でも末姫の闇見でも、皇子で御座います」
不安ならば、こっそり月葉に聞くと良い、と巫王が助言を呉れた。月葉は片眼で過去を見て、片眼で未来を見ているが故に。
初耳だった大王は、月葉の霊力にも驚いて仕舞った。神人として生まれ、本人には其れが当然なのだろうが、何と生き辛い事かと。
「其れにしても…そうか、初皇子か…」
嬉しさを隠す様に、大王は一気に酒を煽った。生涯愛する后との間に、大王には初めての皇子が生まれる。此れまでは何人産ませても内親王ばかりだった。同じ姫と云う立場でも、魚の杜の清らな血は本物だと。
こうして考えると、大王と巫王は似て居る。大王は皇子を求められたのに、生まれるのは内親王ばかり。巫王は姫を求められ、二人続けて王子だった。
周囲の重圧に耐える父と云う点で、話が合うのは当然では無いか。大王は、そんな気がし始めて居た。
「巫王どの、今宵は飲み交わそう」
「大王は酒豪だそうで…お手柔らかに」
初めて会ったとは思えない。知己を得た気分とでも云うのだろうか。二人の間には既に信頼の絆が結ばれ、大王も巫王も人に言った事の無い苦しみさえ吐露出来得る相手、と互いを認識して居た。
魚の杜に住処を移してからも長く続く友情は、此の晩から始まったと言っても過言では無い。
「そうだ、巫王どの。時記が坐安王の額に触れて澪の像を流して居たが、あれは巫王どのでも出来るのだろう?」
「はい、出来ます。何をお望みで?」
「玉石が敷き詰められた川底、皆の話す杜の景色…其れが見たい」
巫王は大王の望む侭、言われた光景を流し込んでいく。ただ、本物には敵わない、と前置きだけは忘れなかった。
「美しき土地よ…真耶佳と此処に移れると思えば、此の座を降りた未来も楽しみで仕方無い」
早くも宮でしか見せない砕けた人柄を、大王は巫王に示して居る。巫王も、余所行きの威厳在る姿は既に捨てて居た。