百二十三、坐安王
宴も酣、と云った所で大王は再び杯を上げた。此れが終わりの合図だと、巫王に小埜瀬が教える。各族の長達は料理を遠離け、侍女が忙しく笹の皿を片付けていくのが余所余所しい。
皆各々に立ち上がり退出して行くが、巫王と小埜瀬は座した侭だ。此処で待てと言われたのだから、そうせざるを得ない。迎えの従者か何かが来るのだろう、と此の時二人は思っていた。
其処に、近付く一人の長。亜耶の闇見通り、西の族の坐安王だ。話し掛けられるすんでの所で気配に気付いた巫王は、立ち上がり坐安王に対して向き合った。
「魚の杜の巫王どのとお見受けする」
単刀直入に、坐安王は切り出した。巫王は如何にも、と返す。澪の幸せを伝えろとは言われたが、澪に会いたがったら如何すれば良いのか。亜耶は、其処の所は何も言わなかった。
「我が娘、澪をお返し頂きたい」
「返す…ですか」
巫王は戸惑い、美髯を撫でた。澪は既に纏向に来ているし、其れも人妻としてだ。返すと云う事は、腹の子は其の侭に夜離れをさせろと云う事か。
「貴男方の姫が、我が娘を救って呉れたのは知って居ります。けれど、其の侭では人攫いも同然かと」
「我が末姫は、夢見の結果貴男の娘を連れて来た。真耶佳の子の、乳母とする為に」
「乳母…!?」
「澪は既に我が子と婚って、后の宮に仕えて居ります。腹には二人目の子も居る」
「なん…っ」
坐安王の顔色は、赤くなったり青くなったり。夜の灯りの中でも見える程、目まぐるしく変わっている。思考が付いて行かなかったのか、坐安王は暫く次の言葉を探して居た。
「父上」
其処に、異世火を纏った時記と大王が現れた。座った侭だった小埜瀬も、慌てて立ち上がる。
「大王に、時記…てっきり迎えの従者が来る物と思って居りました」
巫王は襟を正し、大王に一礼する。坐安王も大王のお出ましとあって、そちらに向き直った。
「我等は此の侭真耶佳の元に行くからの、その馬車にご同乗願おうと思ってな」
しかし何か、取り込み中の様子、と大王は坐安王を見る。
「西の族の、坐安王どのです」
巫王は、取り敢えず大王と坐安王の間を繋ぐ。すると、時記の顔が少し曇った。
「坐安王どの、此方の時記が澪の夫です」
言われて時記は、慌てた様に坐安王に頭を下げた。
「そう云えば澪は西の族の奴婢だったと訊いたが、長が何の用なのだ?」
「澪は、私の娘です。夫君は聞いて居るかと思いますが…」
「聞いては居りますが…」
「澪は、未だに私を恨んでいる。其れは解って居るのです。ただ澪をお返し頂きたく、巫王どのにお話し申し上げたまでで…」
ふうむ、と大王は坐安王を足の先から頭の上まで、値踏みする様に見る。
「澪と時記は、我が嘉した妹背よ。宮でも愛され姫として、無くてはならぬ存在。お返しする事は出来かねるな」
「大王…っ!」
巫王の代わりに大王の返事が有るとは、坐安王は夢にも思わなかったのだろう。悲痛な声を上げた。
「其れに、澪はもう母姫。夫から奪うのは、父の権利を超えて居る。のう、時記」
「澪をお返しする考えは、私にも有りません。也耶も腹の子も、何より澪が望まないでしょう」
「澪から、何を聞いているのだ、時記?」
「うむ。先程坐安王は澪に恨まれていると言った。其の理由を、聞いて居るのか?」
時記は俯きがちにはい、と答えた。
「澪の母と、同母弟の話は聞いて居ます。辛い記憶として」
だから澪は何の未練も無く、魚の杜の民となったのだ、と、時記は語る。具体的に何が有ったかは、時記の口からは出て来ない。澪の辛い過去だからだ。
「確かに饒舌で裏表の無い澪から、西の族の話が出た事は一度しか無いな。奴婢だったと告げた時だけだ」
「私も、澪の話す顔が辛そうで、一度しか聞いて居りません」
時記でさえもか、と大王は驚いた様に言った。澪は幸せを振り撒いて呉れる姫だから、気にした事が無かった。そう大王は、悔しげに言う。
「返して貰えないのなら、せめて、せめて一目会うだけでも…!」
「其れを澪が望むか、時記?」
大王の問いに、時記は苦しげに首を振った。
「澪は、思い出す事すら拒むでしょう」
「私は娘の顔も、孫の顔すらも見られないのか…」
今にも頽れそうな坐安王に、時記が一歩近付いた。澪に知られず、見せる方法なら有る、と。
「澪に知られず…?」
「額に触れても、宜しいですか?」
時記が穏やかな声で問うものだから、坐安王も毒気を抜かれてただ頷く。其処で、時記は澪と也耶、腹の子に話し掛ける澪の姿を坐安王の頭の中に流し込んだ。
「澪…見た事が無い程、穏やかな顔をして居る…ああ、孫は貴男似だ…」
坐安王が、本人も無自覚だろうに涙を流している。そして、時記の手を取り言った。
「貴男が、澪の夫で良かった…どうか、末永く…」
後の言葉は、坐安王のこみ上げる嗚咽で言葉にならなかった。時記は、お約束します、と坐安王の手を握り返す。
「坐安王どの、魚の杜では巫覡の誓いは絶対なのですよ」
巫王が言訳したが、坐安王に届いて居るのかどうか。ただ何度も頷いて、坐安王は幾度も礼を言った。母の地位が低かったが故に、蔑ろにせざるを得なかった妻子。妻と男子こそ亡くしたが、娘は幸せだと。
「失礼ですが坐安王どの、貴男は陸の族の姫のお子ですか?」
巫王が思い付いた様に問うと、坐安王は壊れた人形の様に頷いた。自分は陸の一乃鳥姫の子だと。
「ならば、其れは私の妹の伯母だ。私達は、血縁ですよ」
「いつか…どんなに先でも良い、澪の心が溶けた日には…」
「ええ、其の日には、きっと」
確たる約では無いが、坐安王は納得した様だ。時間を取らせて済まなかった、と何度も詫びて、坐安王も帰路に就いた。
残されたのは、后の宮に向かう四人。待たせてあると言う馬車に向かい、やっと出口の門を目指した。