百十九、纏向へ
巫王は、馬車の揺れに腰が痛むのを堪えて居た。出立から四日目、最初の内は泊所で休めば取れていた腰痛も、今では慢性のものだ。
馬車を御するのは、小埜瀬に任せた。長なのだから、そんな事はしないで呉れと強く頼まれた為だ。確かに交易の馬車の行き来する道は轍も相俟って悪路で、巫王はそんな所で此の速い馬車を御する自信は無い。ただ、轍を踏み越える時の衝撃さえ何とかなって呉れはしないかと祈るのみだ。
そう、馬車が速いので泊所は二つ飛ばしで寄って居る。泊所では簡単な食事と少量の酒が出るのみだが、体を伸ばせるのだけは助かる。備え付けの寝座は、寝心地が良いとは迚も言えない。寧ろ、腰痛を酷くしているのではと思う事も有る。
「八津代兄、顔色が優れないが大丈夫か?」
立って馬車を御していた小埜瀬から、声が掛かる。朝飲んだ苦い薬湯が、効き過ぎて要るのではと心配して居る様だ。
「大事無い。前を見て呉れ、此の速さで振り向かれるのは怖い」
「だが八津代兄、最近泊所でも眠り乍ら呻いて居るぞ」
「…腰が、痛くてな」
其れを聞くと、小埜瀬が大声で笑い出した。
「大蛇に湿布も貰ってくれば良かったか。纏向に着いたら、時記に頼もう」
「うう…」
あと六日程の我慢。其れを示されて、巫王は思わず腰に手を遣る。年明けて三十七になった巫王は、体の衰えをひしひしと感じていた。
五日目の泊所には、日が沈んでから着いた。此処で旅路の半ば。あと五つの泊所を過ぎれば次は纏向だ。
「八津代兄、腰はどうだ?」
二つ年下の従弟は馬車を御するのに立ったり座ったりで、其れ程負担を感じて居無い様だった。此の悪路を元々知って居たのも、大きいのかも知れない。
巫王は寝座にうつ伏せになり、ああ、とだけ答えた。すると腰に、温かい物か置かれる。何かと思って小埜瀬を見れば、火で焼いた石を布で包んだ物だと言う。
「悪いな、小埜瀬」
素直に礼を言う巫王に、小埜瀬も眦を下げた。そして疑問を口にする。何故こんなに急ぐのか、と。
「此の配分で行かねば、亜耶の子生みに間に合わぬと卜で出たのだ」
「亜耶の子生みに!?」
「ああ、この調子ならば、私が帰る日に亜耶は産屋に入る」
「道理で慌ただしい…」
大蛇には知らせて来たのか、そう小埜瀬が問えば、巫王は否と答えた。亜耶が知って居るから、良いのだと。そう云えば、大蛇とて只人では無い。そんな物で良いのか、と只人である小埜瀬は納得に努めるしか無かった。
十日目の夕刻、馬車は宮の大きな門の前に着いた。直ぐに舎人の者が駆け寄って来て、何の荷かと馬車を指す。
「全て后の宮へ運んで呉れ。魚の杜の者だ」
巫王が短く言うと、話は通って居たのだろう。舎人が従者を呼び、荷を検め乍ら別の馬車へと移して行く。陸の屈強な男達とは比べ物にはならないが、従者達も中々の早さで荷を移し終えた。
中でも苦戦したのが重い櫃で、中身は何かと従者達は繁々と眺める。其れが凍った魚だと気付いた者達は、口々に魚の杜の霊威を謳った。
「后の宮の厨で、明日の朝には溶けると伝えては貰えないだろうか」
「は、はい…!」
怯えにも似た表情で、従者の一人が頷く。厨の族人には、其れだけで伝わる筈だ。荷を積み込んだ馬車はそうして、北の方角に走って行った。
空の荷馬車に残された巫王と小埜瀬は、此れでやっと門を潜れる。そう思ったのだが、馬車は此処で一旦預かられるらしい。
「宴の場は、此の奥です」
舎人はそう言って、徒で二人を通した。門の中には無数の敷物と火瓶、既に着席して居る何処かの族の長も見える。
亜耶はこの場で、巫王が西の族の長と会うと言って居た。巫覡の正装をして居るのは、見た所巫王だけ。あちらが探せば直ぐに見付かるだろう、と。巫王と小埜瀬は、大王が回るであろう回廊の側に腰掛けた。