百十八、天つ神の場所
昼餉を終えて暫く経った頃、宮の水鏡が揺れた。澪が直ぐに飛び付いて、亜耶さま、と声を上げる。最初こそ嬉しげだった其の声は、亜耶の様子を見るに付け小さくなって行った。
「如何したの、澪」
心配した真耶佳が、水鏡に寄って来る。
「亜耶さまが、迚もお疲れの様で…」
「まあ」
真耶佳も水鏡を覗き込んで、成る程と頷いた。水鏡の向こうの亜耶は気怠げで、いつもの生気と霊力に満ちた亜耶では無い。大蛇に寄り掛かる様に座っている事も、疲れて見える要因の一つだろう。
「昨日、綾に霊力を分けて貰ったのだけれど…」
張りの無い声で、亜耶が言った。綾には子生みが近いから、霊力を子に使って仕舞うのだと言われたと。
「今日もお父様のお見送りをしただけなのに、疲れて仕舞ったわ」
「お父様は出立さなさったのね。早馬を馬車に繋ぐ割に、随分宴まで余裕が有るのでは無い?」
「真耶佳、お父様が朝弱いのを知って居るでしょう?」
ああ、と真耶佳は嘆息を漏らした。こんな時にまで、寝過ごす事を見込んで居るのかと。
「其れで、真耶佳にお願いが有るのだけれど…」
「何?」
「后の妻籠に、小高く土を盛った場所があるでしょう?彼処は元々、桜が聳えていたの」
真耶佳は何も知らされて居無かった、と目を瞠る。杜から桜を持って来るとは聞いて居たが、此の宮にも元々桜が在ったとは、と。
「彼処は、大王の許しが要る場所よ。杜の桜を植える、許しを貰って」
「分かったわ…其れだけで良いの?」
「後は、桜を植えるのは、杜の族人だけで遣って頂戴。時記兄様と、お父様と、小埜瀬さま。三人居れば、そう時間は掛からないわ」
こくん、と真耶佳は頷いて、亜耶は既に大王の許しが出る事を知っているのだと確信した。霊力が足りないのに、闇見をしたのか。真耶佳の中で、そんな疑問が浮かんでは消える。
「亜耶、貴女は大丈夫なの?」
ふとそんな言葉が口を吐く程に、亜耶の様子も声も気怠い。澪も横で、こくこくと頷いて居る。
すると亜耶はふわりと笑って、お父様がお戻りになる頃にはいつもの私よ、と言った。
澪の話を聞いた時記は、ではあの盛り土は天つ神さまの場所なんだね、と漏らした。天つ神に関しては、澪も訊いた事が有る。西の族では、天つ神を信仰していたから。
「宮で生きるには、天つ神さまのご加護も必要と云う事でしょうか?」
「うん、其れも有ると思うよ。真耶佳も子生みは近いしね」
「でも何故、杜の族人だけで植えるのですか?」
「杜から天つ神さまへの捧げ物、と云う意味だよ」
納得した澪は、話を亜耶の様子に移す。座っているのも辛そうなのに、闇見をして居た、と。妹姫の其の様子は、時記をも不安にさせた様だ。
「亜耶で、霊力が足りない赤子…」
「長には成らないと仰有って居たので、男子だとは思うのですが」
「…長老達を取り纏める役に、立つかも知れない」
え、と澪が聞き返すと、時記は杜の長老達が決して一枚岩では無い事を言訳した。或る者は巫王を直ぐに下ろして亜耶を長にすべきだと言うし、或る者は亜耶の治世は巫王の没後だと揉めていると云う。
「亜耶は姫であって戸売では無いと云う事で、今は落ち着いて居るけどね」
何も子生みの時期に長に成れとは、誰も言わないだろうし。そう続けた時記の瞳は、其れでも何処か不安げだった。
「亜耶さまが戸売となったら…」
「多分其れは、綾と大龍彦が許さない。決めるのは、長老達で無く守神だよ」
守神が決めると云う事は、延いては綿津見神の意志。長を選んでいるのは、綿津見神なのだ。漸く澪は、其れが理解出来た。
「では何故長老達の中に、長を替えようとする者が居るのですか…?」
「守神が見える族人と見えない族人が居る事は、澪も知って居るね」
はい、と頷いて澪は、もしやと時記を見る。
「そう、見える者は綿津見神様に従おうとするし、見えない者は半信半疑なんだ。父上や亜耶の霊威に遭遇しても、神にまでは選ばれて居無いだろうと」
神託は稀に、族の神人にも降りる。其の事が、選ばれた血筋の価値を薄めて仕舞う様に、見えない者には映るのだ。
勿論神人達は正しく理解して居るし、王族を疑う事も無い。八反目には冷たかった神人達だが、時記に取っては良い話し相手だった。
「王族でも、兄上は綾と大龍彦を知らなかった。長老の多くは王族の傍系だけれど、皆が霊眼を持って居る訳じゃ無い」
「小埜瀬さまの様に…?」
小さく頷いた時記は、でも小埜瀬さまは父上の味方だよ、と言って笑った。幼い頃から巫王に付いて回っていたと云う小埜瀬は、色々なものを見聞きしたのだろう。
「勿論、見えない者全てが信じて居無い訳じゃ無い。澪、其れだけは覚えて置いて」
「はい!」
区別は要るけれど、差別はしない。時記の思いが伝わって来て、澪は元気よく応えるのだった。