百十七、白浜
綾の腕の中で落ちた亜耶の眠りは深く、目を覚ましたのは夜半過ぎだった。薄く目を開ければ、火の入った灯りと心配そうな大蛇の顔。右手に感じた違和感は、ずっと綾が握って居た為だと云う。
「亜耶、目が覚めたか」
安堵を顕わにした大蛇の声に、亜耶はひとつ頷いた。
「綾は…?」
「お前に足りない霊力を注ぎ込んで、神殿に帰ってった」
つい先刻の事だ、と言われて、亜耶は悪い事をしたと思う。大蛇の話では、綾が愛しい者と分かる呈で亜耶を抱いて、女御館に現れた。起こさない様寝座に寝かせ、ずっと右手から霊力を注いで居たのだと言う。
「亜耶、八津代の所でどれだけ霊力を使ったんだ?」
「いつも通りよ…こんな風になったのは、初めてだわ」
未だ少し気怠い声で亜耶が答えて、大蛇は眉間に皺を寄せる。
「子生みが近い所為だと綾は言ってたが、本当に大丈夫か?」
其の問いに亜耶は腹に手を置き、大丈夫、と答える。巫王の妹は二人共巫覡では無かったので、加減が分からないのだろうと。
其れでも納得が行かない様子の大蛇に、この子は無事に生まれて来る、と亜耶は証した。巫覡の証は、絶対。大蛇も少し表情を緩める。
「そうだ、水鏡で時記が、女御館の茨を強請って来たから、荷物に入れといたぜ」
「時記兄様が?そう云えば私、今日はずっと女御館に居ると澪に言って仕舞ったのよね…」
先程は、綾と大龍彦が絡んで居た為闇見が叶わなかった。急いで寝座から起き上がろうとする亜耶に、今は夜中だ、と大蛇が止める。
「夜中…?私、そんなに寝て居たの?」
「ああ。宮は今頃、皆寝静まってる」
八津代は少し、亜耶に甘え過ぎだな、と。大蛇の言い様に返す言葉も無く、亜耶は溜息を吐いた。まさか巫王の衣の色まで訊かれるとは、思わなかったからだ。
「でも…其れも明日までよ」
「あ?」
「何でも無いわ。大蛇、寝て居ないんでしょ?明日の為に、今からでも眠った方が良いわ」
「お前は?」
「私ももう少し眠るわ」
其処で、亜耶は自分が熊の頭を枕にして居た事に気付いた。成る程、心地良い。けれど今は大蛇に場所を譲らねば。
亜耶は、寝座の左側に寄って、大蛇の寝床を作った。
巫王の出立は、日が一番高くなる時間だ。陸への舟に荷を積み込んで、小埜瀬と共に乗り込む所。陸までの見守りは綾と大龍彦に任せ、亜耶と大蛇は白浜までの見送り役。
陸に着けば屈強な海の男達が、積み荷を荷馬車に移して呉れる。其の侭幾つかの泊所を経て、巫王達は纏向に向かうのだ。
「ではお父様、呉々も宜しくお願いします」
「ああ、亜耶も私が居ない間に無理はせぬ様にな」
無理なんてさせて貰えません、と、亜耶は大蛇を見る。巫王も頷いて、小埜瀬の乗り込んだ舟に続いた。
小さな旅の為、族人達の見送りは無い。巫王の御館の従者が、幾人か白浜に来ただけだ。
「お気を付けて」
亜耶の声と共に、舟は白浜を離れた。其の有様は、まるで木の生えた舟が海の上を滑るかの如くだ。巫王が手を振るのに応え、亜耶と大蛇はやっと力を抜いた。
「お父様は初めて纏向に行くけれど、小埜瀬さまが馴れて居るから大丈夫よね」
「小埜瀬も八津代の寝起きの悪さには、手を焼いてるけどな」
「まあ、苦い薬湯でも持たせれば良かったかしら?」
些か冗談でも無い口調で言うと、大蛇が吹き出した。何故笑うの、と問えば、時記に言われて小埜瀬に渡して有ると云うのだ。
「お父様、時記兄様からも信用が無いのね…」
「寝起きに関しては、な」
舟の左右を泳ぐ綾と大龍彦を見遣り乍ら、大蛇は可笑しそうに付け加える。少し日程に余裕を持たせたとは言え、泊所で寝過ごす訳には行かない。
「お父様も、そろそろお酒は控えて呉れると良いんだけど」
「無理だろうな、お前の監視無しじゃ」
羽目を外して騒ぐ事は無かろうが、纏向の酒は強いと云う。亜耶は考えても仕方無い、と巫王の従者達に解散を命じた。