百十六、茨
時記は、八十八本の菜花を植える前に厨に寄った。一晩置いた菜花を、湯がいて夕餉に出して呉れと頼みに。菜花は余った物でも四束程あった。杜の菜花で澪が楽しみにして居ると言えば、厨の主も任せろと胸を叩く。
宮の敷地は小ぢんまりとしている様で意外と広く、八十八本の菜花で足りるのか、時記は不安になった。
恐らく亜耶は、菜種を取り損ねて落とし、増える分には何も言わない。最初に八十八本植えたと云う事が重要なのだ。真耶佳が子を連れて何処を歩くか。其れを思案し乍ら、時記は今日も鍬を持つ。
そして、二株の桃の周りと産屋忌屋の前、洗い場と湯殿の手前に決めて、時記は穴を掘り出した。
畦を作って並べた菜花に上の土を被せるだけで済むので、時記の植え方は迚も手早い。様子を見に降りて来た澪は、もう二束程しか残って居無い菜花を見て言葉を失っていた。
「杜でも木花を育てて居たからね。大蛇の教えが生きているんだ」
澪が剰りにも呆気に取られる物だから、時記は季節外れの汗を拭いながら言訳する。澪は杜に居た頃の時記を殆ど知らないし、育てるのは薬草ばかりと思って居た様だ。
「大蛇さまは、本当に色々な事をご存じなのですね」
「うん、私のする事の大体は、大蛇から教わったと思って良いよ」
所で、澪の用は。ふと疑問に思った時記が澪を見ると、昼餉のお時間です、と言う。
「時記さま無しでは、食べられませんので…」
「では、此れを植えたら宮に上がって、着替えようか」
「はい!」
昼餉は来たばかりだと云うし、たった二束植える間に粥とは冷める物でも無い。澪に感嘆され乍ら、時記は素早く残りを植えて仕舞う。
「こんな処にも、植えるのですね」
産屋忌屋の前に最後の二束を植え終わると、澪は嬉しげに言った。今までが殺風景だった分、喜ばしいのだと云う。
「真耶佳さまもきっと、お喜びになりますね」
「そうだと良いな。ああ、澪。後で水鏡を使いたいんだけど…」
「はい、今日は亜耶さまも女御館に居られるそうですよ」
時記は鍬を薬草の畑に戻し、汚れた手は繋がずに澪と階を上る。もう少し欲しい花が有るんだ、と言い添えて。
「時記兄様!」
階を上りきった途端、真耶佳が驚いた様な声を上げる。少し、泥だらけになり過ぎたか。時記が詫びると、真耶佳は菜花の礼が言いたかったらしい。亜耶には既に水鏡で言ってある、と月葉が教えて呉れた。
「少し待ってて、着替えてくるから。悪かったね、夢中になって仕舞って」
そう言って時記は、乳母の間に急いだ。
昼餉を終えると、時記は早速水鏡に向かった。向こう側に居たのは何故か大蛇で、亜耶はと聞くと巫王の御館だと言う。
「今日は女御館に居る筈じゃなかったかい?」
「ああ、八津代の奴が出立前にと呼びに来やがって…」
亜耶ももう九月を迎えようと云う産女なのに、と大蛇は少し恨めしげだ。其れでも時記の話は聞いて呉れるらしく、如何した、と気遣わしげな声で問う。
「大した事じゃ無いんだけどね、欲しい花が有るんだ」
「どんな花だ?」
「茨だよ。あの、冬に赤い花を咲かせる…」
「女御館を囲んで生えてるやつで良いのか?」
うん、と時記は頷いた。二株ほど欲しい、と言うと大蛇が巫王の荷馬車に載せて呉れると言う。
「出立まで、時間は無いんじゃ…?」
「任せとけ。どうせ大荷物だ、茨の二株くらい増えても問題ねえ」
もう八反目も居無いし、女御館には不要な花だからな。そう続けられて、時記は思わず苦笑して仕舞った。時と場所は違っても、用途は同じなのだと。
「他に何かあんのか?亜耶に伝える様な…」
「大丈夫だよ、もう不要な花なら後で言って置いて呉れれば」
「んじゃ、早速掘っちまうか」
「有り難う、大蛇」
大蛇は矢張り、兄貴分だ。時記に取って、迚も頼りになる。勿論妹姫の亜耶も頼りになるのだが、今の亜耶に力仕事は任せられない。
遣り取りも短かに終わった後は、ただ待てば良い。茨も真耶佳の好きな花、そして子等から薬草畑を守る為の植木になる。安易に口に入れてはいけない物は、痛い棘で隠さなければ。
「澪、用は済んだよ」
父親の顔が板に付いてきた時記は、穏やかな口調でそう言った。