百十四、菜花
宮の桃の木は、二日と経たずに植え終わった。其れを報告しようと澪が水鏡を覗くと、何やら水晶片に混じって沈んでいる。
「菜種…?」
不思議に思った澪が幾つもの菜種を水鏡から掬い上げると、其れは外気に晒され一気に芽吹いた。ぐんぐんと丈を伸ばし、此の時期の菜花の固い蕾にまで成長を終えて行く。
「と、時記さまっ!」
澪の只ならぬ声に、慌てて時記も遣って来る。そして菜花を見ると、真耶佳が好きな花だ、と顔を綻ばせた。
「水鏡の中では、確かに菜種だったのです。掬い上げたら急に…!」
「澪、落ち着いて。亜耶からの贈り物だよ」
慌てて居た澪は時記の言葉を聞いて、少し落ち着いた様子。水鏡の中には、未だ菜種が沈んでいる。其れを先に拾ってはどうか、と時記は言う。確かに此の侭では水鏡は繋がらないし、菜種の数も相当な物だ。
澪は更に菜種を掬い上げ、床に置いては芽吹かせて行った。菜種を瞬く間に菜花にして仕舞うなど、只人の為せる技では無い。此れも、杜の霊威なのか。時記は動じずに菜花を纏めて居るが、此の様な事が良く起こるのか、と。澪の頭は忙しい。
全ての菜種を掬い上げ、水鏡の上に片手を翳す。水は汚れては居無かったらしく、水鏡は直ぐに亜耶へと繋がった。
「亜耶さま…っ、此れは…!?」
「見て通りの菜花よ。此の時期から植えれば、花が咲くでしょう?」
そう云えば、時記は真耶佳の好きな花だと言っていた。其れを思って、亜耶は菜種を水鏡に撒いたのだろうか。
「あの、亜耶さま…」
「何?」
「固い蕾を湯がいて食べたら、美味しそうです…」
亜耶は一瞬沈黙した後、領巾で口許を覆って肩を震わせて居る。澪は、余計な事を言っただろうかと焦って仕舞ったのだが、亜耶の口から出て来たのは意外な言葉だった。
「澪がそう言うだろうと思ってね、かなり多めに送ったの。時記兄様、植えるのは八十八本で良いわ。残りはまだ固いかも知れないけれど、宮の皆で食べて頂戴」
澪は顔が真っ赤になっていくのを感じ乍ら、有り難う御座います、とか細い声で言う。真逆亜耶に、自分の食欲まで見透かされて居るとは。そんな思いに駆られながら。
「綾がね、私は霊力を使い過ぎだと言って、手伝って呉れるの。然うしたら澪の分も、となったのよね」
「綾様にまで…!!」
うふふと亜耶が笑って、澪の食欲が綾に見えない筈無いわ、と言った。
「亜耶、八本ずつの束にした。此れは何処に植えれば良いんだい?」
手早く菜花の束を作って仕舞った時記が、澪の横に座って穏やかに笑う。其の姿は、婆が送った作業着を纏って居た。
「時記兄様、矢張り緑が似合うわね」
「そうでしょう!?私も目の保養になります」
「澪…。でも此の宮の皆にも、婆の衣は好評だよ」
で、桃の木はもう植えたのね、と亜耶が話を本題に戻す。時記は頷いて、次は菜花を何処に植えるかを悩んでいる様だ。
「菜花は真耶佳に見える所や、花の気が無くて淋しい所に植えて。お父様が持って行く苗は大王の許しが要る場所に植えて欲しいけれど、菜花は真耶佳の為よ」
桃は大きくなるから、あまり近くに植えないでね、と亜耶は付け足した。
「桃にも、時戻の術が掛かって居るのかい?」
「いいえ、菜種を取らずに落としたら、菜花はまた其処に咲くでしょう?」
成る程、と時記は言い乍ら、巫王が持って来る苗も気になって居る風情だ。一体、何の木が来るのかと。
「お父様には、桜を運んで貰うわ。神のお許しが無いと手折ってはいけない花よ」
「神のお許しが…?では、婆の桜染めは…」
「今年は大蛇が伐ってあげていたわ。私は綾に是を問うただけ」
許された物だと知って、澪は分かり易くほっと溜息を吐いた。気に入った衣が、神の許しを得ずに繕われたとは、思いたくなかったからだ。
「そうだ、亜耶さま!婆にお礼を言わなくては…!」
届いた婆の衣のうち、八割方が澪と時記の物だった。其れに思い至り、澪はつい大声を出して仕舞う。
「そうだよ、亜耶。大王も真耶佳も、付け襟を甚く気に入ってね…」
「月葉の肌着も、一日も欠かさず着ています!」
水鏡の向こうで少し圧され気味だった亜耶は、其れを聞くと嬉しそうに笑った。婆が喜ぶわ、と穏やかに言って、必ず婆に伝えると約束する。
「婆に、何かお礼が出来れば良いのですが…」
「そんな事、婆は求めて居無いわ。そうね…澪達が杜に帰って来て、また婆の湯を使うのが婆の望みよ」
「そ…そんな事で良いのですか…」
「ええ、婆は無欲よ。人の為にして上げる事が、生き甲斐なの」
見習いたいです、と小さく言った澪に、亜耶は充分よ、と返す。杜の為に嫁し、時記の為に、真耶佳の為に、月葉の為に、側女達、延いては大王や其の皇子の為にと身を削る澪だ。
「私から見れば、手助けしか出来ない事がもどかしいわ」
杜の次の長が此処まで言うとは、澪の働きは相当な物だ。時記兄様も、と付け加えて亜耶は、二人の尽力に謝意を示した。
「さあ、時記兄様。明日余った菜花は厨に持って行って、澪を労って上げて頂戴な」
「この菜花は、水に漬けて於いた方が良い?」
「大丈夫、一晩くらい。外に出しておけば、夜露が付くわ」
桃を植え終えただけで、今日はもう充分。亜耶がそう言って二人を和ませるものだから、澪と時記は顔を見合わせて微笑み合った。