百十三、気嵐
亜耶は、川辺に来て居た。神山から続く川で無く、其の支流、神殿と宿り木を隔てる川だ。
明日纏向へ出立となる巫王に、如何しても持たせたい物が有る。だから、偶然を必然にしに来たのだ。
手を浸した川の水は冷たく、朝霧の中に気嵐も沸き立っている。大蛇には言わずに出て来たが、きっと神殿に居ると思って呉れる。
「亜耶!」
沓を脱いで川に入り掛けた亜耶を留めるのは、慌てた様子の綾の声。神殿以外では偶然にしか出会えない守神は、朝霧の中でも必然に亜耶を見付けた様だ。
「何してるの、亜耶!」
綾は、産女が川に入るなどとんでも無いと鋭い声を上げ、駆け寄って来る。小綺麗に管理された橋を渡り、急いで亜耶の元へと。
「何が要るの?僕が拾う」
そう、亜耶がこの川に来た目的は一つ。玉石集めだ。
真耶佳の閨で黒い針を弾いた也耶の為に、月長石が必要なのだ。也耶は孰れ、皇子の一番近くに居る女子として敵意を浴びる。其の前に耳飾りの霊力を放つのは、亜耶の望む所では無かった。
「月長石を…拾えるだけ欲しいの。虹は無くても良いから」
亜耶が其れだけ言うと、綾も目的を理解した様子。直ぐに川に入り、両手で底を浚って行く。綾の手は他の玉石を弾き、月長石だけを集めて水から上がった。
「此れだけ有れば、良い?」
「充分だわ」
後は、亜耶が霊力を込めるだけ。綾の両手に山盛りになった月長石を受け取ろうとすると、また亜耶は制された。
「魂込なら、僕でも出来る。亜耶は今こんなに霊力を使ったら、倒れて仕舞うよ」
言うが早いか、綾の手の内で月長石が輝き出す。浄めの光景に似て、ゆらゆらと数多の光が舞った。
「綾、私が倒れるってどう云う事?」
「亜耶は今、自分が思う以上に腹の子に霊力を与えてる。だから余分な霊力は使うなと、大蛇からも言われてるでしょ?」
「………」
巫女姫は、自分の事が余り見えない。亜耶の様に闇見を主とするなら、尚更他の気配に霊力を向けて仕舞う。
両手一杯の月長石に霊力を込める時間は長く、亜耶と綾の間には束の間の沈黙が落ちた。そうして徐々に光が収まった頃、綾が出来たよ、と気軽に言う。もっと怒られるかと身構えて居た亜耶は、拍子抜けだ。
「八津代に持たせるんでしょ、袋をあげる。お出で」
「有り難う…」
綾に先導されて神殿に向かい乍ら、亜耶は思ったより寒さが堪えている事に気付いた。綾の言う通り、魂込などしたら川辺で倒れて居たかも知れない。
「亜耶、上がりな。中では大龍彦が火を焚いてるから」
神殿の中に導かれる事は、実は珍しい。いつも階で綾と隣り合って座るからだ。今度こそ沓を脱いで上がった神殿の中は、迚も温かかった。
二人が上がって来たのを見た大龍彦は、無言で布袋を手に取った。綾が持つ月長石を入れる為、お互い言わずとも分かり合えるのが羨ましい。
「亜耶、無茶しただろ」
火に当たれ、と大龍彦は少し怒った声で言った。綾の袴の裾を見てか、月長石を見てか、何が有ったか察したらしい。
「産女が気嵐になんて当たるな。ったく、大蛇は何してやがる」
「大蛇には言わずに出て来たわ…」
也耶との約束は、秘して居るから。そう続けると、綾と大龍彦は揃って溜息を吐いた。
「人の身に落ちるってのも、考えもんだな。お前の無茶に気付けないんじゃ…」
「約したと言ってからは、何も聞いて来ないもの。大蛇も巫覡同士の約束を尊重して呉れて居るのよ」
杜で生きると決めたからには、巫覡の掟に従う。大蛇は、其の道を選んだだけだ。亜耶が言い募っても、二人の険しい表情は変わらない。
「杜の掟、ならば僕達が伝える分には破られないよね」
確かに守神は、杜の外から見守る者。綾の言い分は、正しい。けれど亜耶は、頭を振る。
「也耶を裏切りたくは無いわ」
また、沈黙。先に破ったのは、綾だった。
「まったく…頑固な所は誰に似たんだか」
「綾だと思うわ」
「…確かにな」
大龍彦が同意して仕舞った事で、綾の表情がむっとした物に変わる。不穏な気配を察したのか大龍彦は、亜耶に布袋ごと月長石を押し付けた。
「亜耶、八津代には使い方教えて遣れよ」
「ええ…お父様も、理由は詮索しないでしょうし」
「相変わらず亜耶に甘いんだから!」
結局綾の怒りは大龍彦に向き、逃げ損ねた大龍彦は暫く小言を言われ続ける羽目になる。見て居て哀れにも思えるのは事実。然れど小言を受けるのが自分で無くて良かった、と亜耶は不謹慎にも思うのだった。