百十二、杜の女
夕餉を終え、大王を待つ間に時記と澪は乳母の間に下がった。時記は結局、宮前の桃を日の在る内に植えてしまったのだ。
鍬を持った手には、肉刺が出来ている。衣は婆が送って来た作業着で足りたが、真逆土に汚れた其れで大王の前に出る訳にも行かない。
「時記さま、この鶯色の衣と袴、お似合いになりそうですね」
「澪の裳も、鶯色で繕ってあるね。奥出が鳴く頃になったら、着よう」
婆は本当に、時記と澪の衣を共布で繕って送って来た。しかも、何対も。澪は見た事も無い淡紅の衣が気に入った様で、何の色なのかと思案して居る。
「澪、其れは桜染めだよ。毎年冬になると、婆が染めるんだ」
「まあ、桜…?あんなに白い花なのに、こんな色が取れるのですね」
「うん、桜染めで使うのは、枝だからね。花の根元の淡紅を、移した色になるんだ」
そうですか、不思議です…と澪は、桜色の衣と産着を手に取る。也耶と揃いの其れは、春先の陽気に丁度良い物。また婆に礼を言わねば、と澪は心に決めた。
「そう云えば時記さま、お着替えになる衣は決まりまして?」
「此の、厚手の萌葱色にするよ」
「婆は、時記さまに緑色を着せたいのですね」
うふふと笑った澪は、自分も時記には緑が似合うと思って居る事を隠そうともしない。共布で其れ等を着られる事が、嬉しいのだ。
「ではお召し替えを…大王が、間もなく参りますわ」
頷いた時記を見て、澪は乳母の間から出て行こうとする。すると時記は、澪の髪を撫でて待って居てと囁くのだった。
澪は、時記に絆されて大王が訪なう直前まで乳母の間に居た。萌葱色の上下は宮の皆からも好評で、真耶佳の気にも入った様だ。
「もう直ぐ、大王がお出でになるわね。婆の衣、自慢しなくては」
婆の繕い物は、赤の付け襟も大王の思った以上だったそうで、早速自分の分を居宮に持って帰ったと云う。宴の衣に縫い付けろ、と命じたのだろう。后の宮でも、真耶佳の宴の衣に付け襟は既に縫い付けられている。
二人は宴の席で、どんな仲睦まじさを発揮するのか。少し困った事に為るか、其れとも黒い針が勢いを失うか。
禍事は起こらないと言った亜耶の言葉を信じ、宴に出られない澪は不安を取り除こうと懸命だ。
「澪さま、大丈夫です。面白い事に為りますよ」
澪の不安を汲み取った月葉が寄って来て、宴の事を耳打ちして行く。しかし面白い事とは、と澪が聞き返す前に、大王の先触れが来た。
遣って来た大王は、突然階の前に出現した桃の木に驚いて居た。出入りに問題は無いが、何の為かと。
澪と時記で事のあらましを振り返り、皇子を護る為の物だと言うと大王は喜んだ。
「亜耶姫には、感謝せねばならぬ。同胞では無いと言い乍ら、こんなにも吾子を気に掛けて呉れるとは」
「亜耶は、素直では無いのですわ。いつも夫をそう言ってからかって居ますけれど、亜耶自身も自分の愛情深さを気取られたく無いのです」
だから、見返りは不要ですわ。真耶佳がそう言うと、大王はううむ、と唸った。其れでも何か、返せる物が有れば、と思案して居る様子だ。
「暁の王、亜耶はお許しが欲しいのですわ。此の宮内に、杜の木花が増える事をお許し下さいませ」
「其の程度の事で良いのか?こんなにもして呉れて居るのに…」
「ええ」
「真耶佳、亜耶姫の好きな玉石は何だ?」
「菫青石ですわ」
見返りは要らない、と言い乍ら、真耶佳は大人しく答える。瑠璃、菫青石、柘榴石。魚の杜に於いて、真耶佳と亜耶と澪を象徴する石だ。
「暁の王、ご無理は為さらないで下さいませね」
真耶佳は領巾で口許を覆い乍ら言う。大王の魂胆が、見えて居るのだ。ただ、瑠璃や柘榴石と比べて菫青石は手に入り難い。陸でも稀に手に入ったが、其れは唐と交易の有る西の族がどうにか手に入れて来ていただけだ。
「大王、亜耶は杜の女です。杜では偶然は必然、偶然手に入った折に考えて遣って下さい」
時記にも言われて、大王は心得た、と渋々頷いた。