百十、餅
数日が経ち、新年の儀式を終えた大王はまた真耶佳の元に毎晩訪なう様になった。そうなると増えるのは、嘲笑に留まって居た筈の黒い針。真耶佳へと向けられる妬み嫉みの黒い針は、また数を増やしていた。
澪が聞いた所、亜耶は也耶に乳を遣る以外の事はして居無いと言う。何処かに含みを持たせた亜耶の笑みは澪に一抹の不安を抱かせたけれど、そう言われて仕舞っては如何ともし難い。
真耶佳には亜耶の乳の所為だと云う事にして、澪は也耶のあの行動を誤魔化して居た。
大王が来て、半刻程。そう云えば杜からの荷物が届いた、と真耶佳が大王に嬉しげに報告して居る。付け襟は今宵、閨で見せるのだろう。
「失礼致します」
其処に、厨の族人が現れて何かを捧げ持って居る。真耶佳、時記、月葉は、その手元を見て心を好くした様だ。
「杜から秘伝の餅米が届きまして…大王の居られる刻限に、と思ったら、手間取って仕舞いました」
族人は何やら紫色の塊と、魚醤らしき碗を持って居る。澪には何の事か分からなかったが、月葉が受け取り、其れは輪の中心に置かれた。
「暁の王、此方は魚の杜で新年に食される餅なのです」
よく見れば、一口大に千切られた餅。しかし、紫色とはどう云う事なのか。澪の視線に、時記が笑い乍ら答えて呉れた。
「魚の杜の宴では、新年に黒米を混ぜて紫色に染まった餅を、魚醤で食らうのです」
「一番鶏と同時にね」
そう云えば今年は亜耶が何も言わないと思ったのよね、と真耶佳が言う。大王は、紫色の餅に興味津々だが、魚醤に漬けて食べる事に抵抗が有る様だ。
「暁の王、杜の魚醤は他の族の物よりも美味ですわ。普段から召し上がって居るではありませんか」
「普段…?厨では、普段から魚醤を使って居るのか?」
「ええ、大王の好きな赤粥にも」
魚醤は苦手だが、まるで気付かなかった。大王はそう言って、また餅を眺める。
「さ、冷めないうちに」
幾ら后の宮とは言え、出された物に食べるのは大王が一番先。真耶佳が餅を一つ摘まんで魚醤に潜らせ、大王の口元に持って行く。
魚醤独特の厭な匂いがしないのを確認したのか、大王は其れを大人しく口に入れた。
「………美味い!」
ずっと階の間際に控えて居た族人も、其の言葉を聞いて顔を綻ばせる。
「真耶佳、もっと食べさせて呉れ。側女達も、味わって見ると良い」
「暁の王以外は、自分の手で食べてね」
真耶佳がおっとりと言うと側女達は、皆様がお召し上がりになった後で…と遠慮する。そんな事を言って居ては、つきたての餅が台無しだ。
「真耶佳さま、順番に回しましょう。温かい内に」
月葉が言うと、各務が大王用の取り皿を持って来る。大王の食べたいだけ、此処に取って下さいと。大王も其れがお気に召したのか、山になった餅から夕餉後に食べられる限界を取った。
「澪、食べて良いわよ」
真耶佳が澪の事を、忘れる筈は無い。ずっと大王の口許を見詰めていたのが、剰りにも分かり易かった。
「で、では…失礼致します」
澪は、餅を取って魚醤に潜らせ、この上なく美味しい物を食べた時の顔をした。月葉が其れを見て、領巾で口許を押さえて居る。此れは、笑って居る時の行動だ。
次に時記が取り、懐かしいね、と感想を零した。月葉も食べたいのは変わらない。食べれば年相応の少女の顔をして、微笑んで居る。
「さ、貴女達もお食べなさい」
此れまでの反応をまざまざと見せ付けられた側女達は、遠慮しつつも我先にと餅を取った。
「私、魚醤は苦手だったのですけれど…」
「何の厭味も無く食べられる味でしょう?」
「はい!」
喬音が月葉に大きく返事をして、宮内を大きく沸かせた。澪も、もっと食べたいと言って餅を取る。夕餉の後なのだから、そんなに腹に入る分量は多く無い筈。しかし、山盛りの餅は、瞬く間に無くなって仕舞った。
「では、私は此れで…」
誰もが忘れ去っていた厨の族人が、はにかんで宮を辞そうとした時。大王が、待たれよと丁寧に引き留める。
「よく、我が訪なって居る時に持って来て呉れた。感謝するぞ」
族人は滅相も無い、と言って何度も頭を下げて辞して行った。
「余って乾いた餅を焼くのも美味しいのですけれど、…来年のお楽しみねですね」
月葉は懐かしげに言うが、諦められないのが澪である。
「宮内の何処かで余らせてはいないかと…」
「こんな時間から、聞いて回っちゃ駄目だよ。きっと何か考えて有るさ」
時記が押し止めなかったら、澪は本当に階の下で沓を履いて居たかも知れない。月葉が、邑の羹には何日後かに必ず餅が入るから、と説得したのも効いた。
「では、厨の主を信じてみます…」
澪が悄々と述べて、其の夜の餅騒ぎは終わった。