百九、秘密
女御館に、いつもより早い朝が来た。眠りの浅くなった亜耶は、孕む前の禊の時間より早く目が醒めて仕舞う。
けれど、今朝は其の方が都合が良い。亜耶は隣で眠る大蛇を起こすと、澪の間に向かった。
久し振りに布連を分けて見た澪の間は、時を止めた様にあの五月の侭。ただ、寝座に眠る者が違うだけだ。
「お父様、時間です」
熟睡、と云った風情の巫王に、亜耶は一応声を掛ける。勿論、反応は無い。其処で亜耶がしたのは、夜具を引き剥がす事。
昨夜澪の間に置かれた火瓶は、今はもう暖かさを無くしている。当然巫王は、朝の冷気に晒される訳だ。
「うう…」
巫王は、時記の言う通り寝起きが悪い。唸って縮こまり、未だ寝ようとする。其れを許さないのが、亜耶だ。
「お父様、今度は私が羽張様の声を真似ましょうか?」
夜着の侭の巫王を見下ろし、亜耶は冷たく言い放つ。もう少し優しい起こし方は無いのか、と大蛇が様子を見に来るが、亜耶は視線一つで其れを押し止めた。此れで、巫王を庇う者は無い。
亜耶は澪の間の大窓を、手も触れずに開けた。途端に、入って来る冬の冷気。流石に巫王も耐え切れなかったのだろう、大きく声を上げて、寝座の上で飛び起きた。
「あ、亜耶…」
「何です、お父様?」
「せめて火瓶に、火を…」
「ご自分で為さいませ」
よく見れば、巫王の美髯にも寝癖が付いている。亜耶は早く着替えて顔を洗う様に言い、夜具を回収して澪の間を出た。
大窓は巫王が閉めれば良い。火瓶には、巫王が異世火を入れれば良い。そんな見捨て果てた対応をしなければ、巫王は日が昇るまで眠るだろう。
亜耶の間に戻ると大蛇が衝立の向こうを哀れな目で見て居たが、仕方が無い。巫王は夏の禊さえ、他の巫覡より遅い刻限に済ます。こうでもしなくては、綾と大龍彦に取っての朝に神殿に連れて行くなど不可能だ。
澪の間で大窓を閉める音が響き、巫王の歯がかたかたと鳴っているのが聞こえて来る。火瓶には、藁など燃え滓しか入っていない。次は、布連を潜って廊下に出て来るかどうかだ。
「大蛇、藁は入口の側に在るのでしょう?」
「ああ、在る」
巫王の御館では至れり尽くせりだろうが、女御館の朝は此れだ。そう察したらしい巫王が、廊下に出て沓を履く気配がした。
無事に神殿に巫王を連れて来た亜耶は、綾と大龍彦を驚かせた。
「八津代が、こんなに早く起きるなんて…」
「亜耶、どうやったの?」
神殿の二人は、どうやら朝の祈りを終えたばかりらしく、巫王の早起きを訝しんで居る。大蛇は答える気は無い様だし、亜耶も詳しくは言うまい、と心に決めている。
「羽張様の声真似を、するまでも無かったわ」
簡単に其れだけ言って、亜耶は大龍彦と巫王を向かい合わせた。新しい襲を着た巫王は、顔色だけは良さそうだ。朝受けた仕打ちなど、巫王も語りたく無いだろう。
「で、八津代。貝の類いはどの位必要だ?」
挨拶も無しに、大龍彦は本題に入る。巫王は貝だけで無く、大蝦も持って行きたい、と応じた。
「時記の好物だろう?此の時期の大蝦は身が締まって美味だからな」
「綿津見のおっさんは、鮑は駄目だと言って居たが、良いか?」
「ああ、構わない。魚に関して果ては有るか?」
「そっちは無い。御使い以外は何でも持って行けってよ」
「では…」
巫王と大龍彦は、持って行く貝に付いて話し始める。貝毒が有る物は、元々杜では禁じられて食されない。他の族と違って、神殿にも捧げない。だからこそ、真耶佳の宮に持って行くのは厳選した貝だ。
「澪に、帆立を持って行って。厭な思い出の侭終わらせるのは、心苦しいわ」
亜耶は其れだけ口を出し、後は綾とお喋りだ。綾は、真耶佳の子生みが終わったら亜耶に言わねば為らぬ事が有る、と言う。
禍事では無いと云う其れは、亜耶が少し動ける様に成ってからの方が都合が良いらしい。大蛇ですら、心当たりの無い何か。
「楽しみにして居てね」
「分かったわ」
簡単な遣り取りで、亜耶と綾の取り決めは終わる。また増えた綾との秘密に少しだけ、胸の温もりを灯し乍ら。