百六、それぞれの宵
少しは落ち着いたかい、と水鏡を離れた澪に、時記が声を掛けた。覚悟を決めなければならない程、真耶佳との距離は遠くなかっただろう、と。
澪のよく出来た夫は、其処までお見通しで亜耶との会話を勧めたのだ。
「はい、亜耶さまに言訳して頂きましたし、落ち着きました」
澪がいつものはにかんだ笑顔で言葉を返すと、時記は良かった、と頭を撫でて呉れる。
「女御館は、今宵お義父様もお泊まりになるのだそうですよ」
「へえ、何でまた」
「綾さまと大龍彦さまの朝に、間に合わせる為…と」
亜耶が茶化して居た記憶を辿って、澪は答えた。すると、時記は成る程、と笑って居る。
澪が不思議そうな顔をすると、時記はきちんと応えて呉れる。今回も、事細かに。
「神殿の朝は早いんだ。此の時期、昏い内から綾や大龍彦は起きるから。其れに父上は、朝が大の苦手なんだよ、ああ見えて」
多分、亜耶か大蛇が朝叩き起こすんじゃないかな、と時記は顔を綻ばせる。
「まあ…お酒がお弱いだけでは無かったのですね」
「うん、父上は今宵、酒を取り上げられるだろうね」
既に夕餉を終えた宮内は、後は側女達をそれぞれの閨に返す所。真耶佳を見れば、也耶との夜が頗る楽しみである様子だ。
月葉が側女達に、温かい生姜湯を飲んだら気を付けて帰る様促して、今日の働きを褒めた。側女達は、甘い生姜湯に大喜びだ。手が悴んで、と碗を握る者も居る。
月葉がこんな刻、迚も優しい顔で側女達を見て居るのに、気付いて居るのは何人だろう。月葉は気付かれたく無い様だが、厳しいだけでは遣って行けない。いつか、皆気付けば良い。澪はそう、願って仕舞うのだ。
夜着に着替えた澪は、也耶を抱いて真耶佳の閨へと赴いた。乳母の間とはそう離れて居無いが、互いに気配は感じられない。そう云う造りなのだ、と大王が言っていた通りだ。
「澪、也耶!」
既に横になった真耶佳の、嬉しそうな声。閨の守人の月葉は、今宵は自分の閨に居る。久々の、温かい夜だろう。
火瓶で暖められた閨は、乳母の間と同じ位の寝座と、此れまた大きな夜具が置いてあった。
「暁の王がね、夜具を体の下に巻き込む癖が有るの。だから夜具がこんなに大きいのよ」
澪の視線で察したらしい真耶佳が、少し嬉しそうに言う。もう此処は、大王の居場所なのだ。けれど今夜は真耶佳の物。澪は凄い、と言い乍ら毛皮の夜具を押し上げて入り込んだ。
「真耶佳さま、月葉の作った物は如何ですか?」
「具合が良いわ。でも、暁の王との間に置いたら、怒られそう」
「大王がお越しにならない夜だけ真耶佳さまが使って、後は私の子にも貸して下さいな」
そうね、と笑んだ真耶佳が、ふと気付いた様に口にする。
「ねえ、二月後には乳母の間に赤子が二人居るのよね。此れ位大きな毛皮の夜具、有った方が便利じゃ無い?」
「そうですね、真耶佳さまの子生みは一番寒い時期ですし…有れば嬉しいです」
「なら明日の夜、暁の王にお強請りしなくてはね」
有り難う御座います、と言い乍ら澪は、也耶を二人の中央に寝かせ、毛皮を掛けた。也耶は、温かいのかふにゃふにゃと口を動かす。
「可愛いわね…」
真耶佳が也耶の頬を突き、感銘を受けた様に言った。
「ねえ、澪。子を持った感想は、如何?」
急に振られて驚いた澪だったが、返事に迷いは無い。
「幸せで、御座いますよ」
慈母としての微笑み。少女としての戸惑い。其れを全部混ぜても、幸せとしか出て来ない。
「…綺麗ね、澪」
「えっ?」
しみじみとした真耶佳の口調に、澪は又も面食らう。今目の前で優しい笑みを浮かべている真耶佳の方が、ずっと美しいと云うのに。
次第に不思議そうな顔に変わっていく澪が可笑しかったのか、真耶佳は杜に居た頃の様に思いきり笑い出す。
也耶はもう夢の中だが、閨の灯りは落とされて居無い。懐かしい話に花が咲き、澪と真耶佳が眠るのは、今少し後の事。