百三、襲
話が終わると、巫王が大きく欠伸をした。陸では余り寝付けず、腹も減らして帰って来たのだから、餅を食べれば眠くなろうと云う物。
「お父様、お休みになった方が良いわ。此方の元始祭は、綾と大龍彦が遣って呉れるから」
其れは、巫王に取っては魅力的な話だったのだろう。少し寝かせては呉れまいか、と亜耶と大蛇を見る。
「…まあ、偶には良いだろ」
そう言ったのは、大蛇だった。熊の頭が枕に丁度良い。言訳し乍ら、巫王を導いていく。
「悪いな、大蛇…」
「疲れてんだろ、八津代。気ぃ使うな」
但し、此れは駄目だ、と。大蛇は巫王が腕に抱えた襲を取り上げる。
「ああっ」
「こっち使え。使い古しで悪いが、此れはまだ半裑縫うんだ」
急がねば、大王の宴に着て行けなくなるぞ。そう脅されて、巫王は大人しく縫い掛けの襲を離した。
直ぐに寝息を立て始めた巫王の眠りは深く、此れでは夜眠れなくなるのでは、と亜耶は心配になる。
「ちょっと、火瓶に入れる藁取って来る」
大蛇が亜耶の間を出た隙に、亜耶は巫王の額に手を翳した。哀しげだが、悪い夢は見て居無い。羽張の夢を、見て居るのだ。
其れを吸い取る訳にも行かず亜耶は、少し切なくなった。
夕暮れ時。綾が元始祭が無事終わったと、女御館に来た。巫王は未だ眠って居る。
「八津代、随分陸で気を張ったんだねえ」
「ええ、そうみたい。昼過ぎから寝て居るわ」
代わりを頼んで悪い事をしたかしら、と落ち込む亜耶に、綾はそんな事は無い、と言う。亜耶の子は綿津見神様の楽しみなのだし、ゆっくり休んで呉れた方が良い、と。
「其れはそうと亜耶、大龍彦が貝の類はどれ位取れば良いか気にしてるけど」
「まあ、もう?」
「綿津見神様に知らせなければならないからね」
そう云えば大龍彦は、頼んだ時にもそんな事を言って居た。
「明日の朝、お父様を連れて神殿に行くわ。今日はもう、薄暗いし」
「うん、お願い」
そう言って綾はちら、と巫王を見た。もう起こしても良いのでは、と其の目が言って居る。
「懐かしい夢をご覧の様だったから…」
「もう、羽張の夢は終わったよ」
此の侭じゃ、亜耶と大蛇が寝られないじゃない。そう言って綾は巫王の耳に何かを吹き込んだ。
「綾…何してんだ?」
黙って見て居た大蛇が、一抹の不安を抱えて声を掛ける。
「ちょっと、気付けの一言を」
悪戯めいた綾の様子とは逆に、巫王は急に眉根を寄せている。忙しなく寝返りを打って、最後に大きな溜息と共に寝座に起き上がった。
「お父様!?」
「おい八津代、大丈夫か?」
気付けば綾の姿は無く、気付けの一言が何だったのかも分からない侭だ。巫王は済まない、と言って寝座を大人しく下りるし、何なのか。
「…懐かしい、夢を見た」
「ええ」
「羽張が、もう起きねば亜耶と大蛇の迷惑になる…と」
まあ、と亜耶が惘れた声を上げる。夕餉の催促では無かったのね、と。
「夕餉…?もう、そんな刻か」
「此処で食うか?」
「羽張が…」
「其れ、綾の悪戯よ。夕餉を食べてよく寝て、明日の朝は神殿に行きましょう」
神殿…と腑に落ちない顔をして居る巫王に、大蛇が綾との約束を伝える。すると巫王も合点が行った様で、朝か…と呟いて居る。
「お父様、起きる自信がお有りにならないのなら、澪の間に泊まれるわよ」
澪の間から、寝座は退かして居無い。真耶佳の間も同様なのだが、今は乾し肉といつの間にやら干し柿が有る。そんなこんなで澪の間なのだが、巫王は決断した様だった。
「うむ…頼もう」
「んじゃ、夕餉こっち持って来る様に行って来る」
「済まないなあ、大蛇」
「其れと、此れ。八津代が寝てる間にもう半裑縫えたぜ。正式にお前のもんだ」
着てみて都合の悪い所は言って呉れ、と言い残し、大蛇は厨に向かった。毛皮を縫うのには力が要る。其れを熟してからの使い。大蛇は矢張り、只人では無い。
そんな事が頭に有るのか無いのか、亜耶の前で新しい襲に袖を通した巫王はまるで子供の様にはしゃいで居る。
「お父様、袖が有るから少し前に屈んでみて。…大丈夫ね」
「ああ、都合の悪い所など無い!大蛇には礼を言わねば!」
良かった、と胸を撫で下ろす亜耶を余所に、戻って来た大蛇は巫王の大はしゃぎに、不都合が無かった事を知った。