九十九、海人
亜耶と大蛇が白浜に着いた時には、丁度白衣を纏った巫王が舟に乗り込む所だった。もう出て仕舞ったかと思ったが、間に合った。
「お父様!」
「亜耶か、夜更かしで体に大事無いか?」
「ええ。ねえお父様、矢張り綿津見神様の所には私が行くわ。お父様は早く陸に…」
側で聞いて居た大蛇が、え、と云う顔をする。巫王は、美髯を撫でて其の必要は無い、と身重の娘を留めた。
「でも、陸は今宵…」
「綾から聞いているよ。使いはもう送った。夕刻に間に合えば大丈夫だ」
そう、と亜耶は巫王の早い手の施しに、思い至った様だ。巫王には卜が有る。陸の族人に竹と縄だけ張らせて、後で自分の霊力で結界とするのだろう。
「御使いを食らった子の母は、身籠もっているわ」
「…お前の心配事は、分かった。手荒く連れ戻す真似はせぬよ」
しかし、九つか、と。巫王も遅く授かったと云う其の子を、親を、案じて居る様だ。
「亜耶、綿津見神様もお前の子の誕生を心待ちにして居られる。無理は考えないでお呉れ」
巫王はそう言って、舟に乗り込んで行った。入江を出た所からは勇魚が護って呉れると綾も言っていたのだから、巫王や乗り子に心配は無い。
気付けば、神殿から綾が出て来て横に立って居た。亜耶の肩を抱いて、大丈夫、と言い聞かせる。
「綾、俺の役目だ…」
大蛇の苦虫を噛み潰した様な声で振り返るが、そちらはそちらで大龍彦に髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でられて居た。
「毎年一緒に行くから、舟を見送るって新鮮だね…」
「ああ」
綾と大龍彦はまた別の感慨に浸っていて、海に呑まれた鬼の子の幸せを、亜耶に見せる。大蛇は綿津見宮は肌に合わないと言って居たが、悪くは無いと昨夜零した。
殺した御使いは、戻らない。其れは綿津見神も知る所。其の子が海で上手く遣れば、何れは陸の族を覗き見る事くらいは許されるかも知れない。
「亜耶、大龍彦、今宵は神殿では無くお父様の御館に居て」
「女御館じゃ駄目?」
「私達も、あちらに泊まるわ」
なら良いよ、と綾は軽く了承する。皆、今宵巫王が留守にする事を、分かって居るのだ。
「だったら、今朝の残りの餅に火を入れて遣るよ」
大蛇の提案に少し心が軽くなって仕舞う辺り、亜耶はこの乳兄弟三人組に知り尽くされていると言える。
海人、と声が聞こえた。巫王の御館での事だった。外は疾うに夜の帳が降りていて、波が結界間際まで荒れ狂っている。
その様は、星空とは対照的で、夜に映える。今宵は魚の杜でも族人の海での漁りを禁じたので、海に呑まれた白浜には誰も居無い。
「亜耶…」
同じ声を聞いたらしい綾が、御館の大舞台へと出て来た亜耶を連れ戻しに来る。けれど、見えて仕舞う。海人とは、御使いを銛で突いた子の真名。母が呼んでいるのだ、張り叫ぶ様に。亜耶が聞いたのは、共鳴りだろう。
幾度も波に足を取られ、陸の浜で母は海人に追い縋る。手を離さないで、どうか行かないで、と。当の海人は、何かを察して母の手を離した。
未だ追い縋ろうとする母の腕を掴み、巫王が何事かを告げる。途端に母の体からは力が抜け、其の場に頽れた。波は、其の足元を撫でるばかり。
海人、ごめん、其れを繰り返して、母は泣き崩れた。海人は、九つの男子は、笑って海に呑まれた。
「亜耶、もう終わった。中に入ろう」
引き波を、見ちゃいけないよ。綾が、亜耶の体を抱えて御館に引き入れる。時に大闇見の霊力は、人の身にして哀れだと。