九十八、最後の妻
后の宮で皆が寝静まった頃。大王は一番鶏の鳴くを聞いて、急いで式衣を脱ぎ捨てて居た。今日は一月の一日。此れから白装束に着替え、四方拝を行う。其れが終われば晴れて今宵は自由の身、しかし今宵から明日の朝までを逃せば、また真耶佳に会いに行けない日となって仕舞う。
時記は察している様だったが、真耶佳は最早大王の全てだ。腹の子を太子に、と言った其の意思は変わらない。仮に女子だったなら、纏向に遷都した時を真似てまた女王に立ち返るまで。
大王は近頃、腹心の臣にもそう告げて憚らない。魚の杜の王族には、連綿と大王の血筋が混じって居る。嘗て嫁した姫達が女子を生み、里下がりと共に連れ帰った為だ。其れ故、真耶佳を国母として大后にする事は、容易い事。
大王には、同母の兄弟姉妹は居無い。其れは代々、妻籠みを作ってきた理由と重なる。何故か妻籠みにはいる女達は、様々な理由で大王の種の子は一人ずつしか生めなかった。
そして今の大王には、男子の孫は生まれたが子等は女子だけ。真耶佳を最後の妻と証した日から、大王の心は決まっていた。
あの五月の最後の晴れに、硬い表情で輿に乗って来た真耶佳。后の宮へ、と言ったらば、蒼白になって倒れ掛けていた心弱い娘。形の良い唇は、哀れな程震えて居た。木漏れ日の下で出迎えた、あの日は生涯忘れないだろう。
今頃、真耶佳は眠りに就いた頃だろうか。大晦に澪と時記に新しい衣で言挙げをさせたいと、真耶佳は微笑んで居た。きっと其れも、上手く執り行われた筈だ。真耶佳の元には月葉が居るのだから、不安要素は全て排除しての言葉だろう。
其れに真耶佳自身、子を孕み、人を上手く使える様になってからは強くなった。大闇見の亜耶姫が難産の卦を指摘していたが、其れすらも乗り越えてくれると大王は信じて居る。
「斯くも気高き日嗣の大王…」
考え事が、過ぎたか。疾うに着替えは終わって居る。外から呼ぶ神僕に応える形で、大王は四方拝へと向かった。
昼過ぎになると、宮には側女達が一刻の休みを終えて集まって来た。今朝方まで皆と共に時間を過ごして居たのだから、宮の面々の寝坊は見て見ぬ振りである。
其処に、普段通りの時間の先触れが来た。応対した側女は、先触れの男に、え、と声を上げて居る。
「如何したの、姶良?」
異変に気付いた各務が声を掛けると、姶良と呼ばれた側女は少し声を落とす。今宵大王は、夕刻前にお出でになる様だ、と。
皆寝静まって静かな宮の中、姶良の声は其れでも響いて仕舞って、皆一様に慌て出す。先ず、各務が月葉を起こしに行った。
「茅野、真砂、床掃除を…!」
「はいっ」
「姶良は厨に行って、知らせて来て!
「はい…!」
「相良と三朝は、私と一緒に毛皮の床敷きを急いで外で叩きましょう!」
今は各務に次ぐ地位となった喬音が、てきぱきと指示を出して行く。勿論、自分が一番の重労働を担うのも忘れない。
月葉が起きて来る頃には、側女達は月葉の望んだ以上の仕事をして居るのだった。
各務が起こしに行くと、澪は寝座の上で高い枕を使って眠って居た。蝶髷を崩さない為だ。大王にも見せたい、と。昨夜着た衣も丁寧に畳まれ、もう一度袖を通されるのを待って居る。
澪の可愛らしさに思わず微笑みを落とした各務が寝座に近付くと、先に時記が身を起こした。
「各務かい、何か有った?」
普段、乳母の間には側女は立ち入らない。だから、急な事と理解して呉れたのだろう。高圧的に怒る人で無くて良かった、と各務は無礼を詫び、大王の訪ないの刻限を知らせた。