九十六、年の初め
亜耶が東雲を見た頃。宮では、新しい年を祝う舞いが時記によって披露されていた。真耶佳や月葉には見慣れた光景。けれど、此方では見目麗しい男の舞いは滅多に見られないと云う。
澪も見馴れぬ其れに心を奪われた一人で、食い入る様に夫を見詰めて仕舞った。
「いつもは、お父様と亜耶と舞うのよ」
「そう…なのですか」
「ええ、今年は亜耶が身重だから、お父様の一人舞いね」
巫王も、老いたとは言え充分に華が有る。時記とまでは行かなくとも、太刀持ちての舞は族人の目を惹くだろう。
澪が杜に心を馳せる瞬間は、不意に訪れる。真耶佳も、きっと巫王の御館の舞台が恋しいのだろう。感慨深く時記を見詰めて、手を叩いて居た。
「亜耶が、女御館に戻った様だよ」
舞い終えた時記が、前置きも無しに言う。水鏡を揺らしてご覧、と。時記はそう言って、自分の太刀を布で巻き、片付けに行って仕舞った。
澪は、言われるが侭に水鏡を揺らす。そうすると何故か、応えたのは綾だった。
「澪、久し振り」
「綾様…如何したのですか、亜耶さまに何か…!?」
「何か有ったのは、陸の族の方。亜耶は何とも無いよ」
綾への畏敬に満ちた言葉を聞いて、真耶佳が水鏡へと寄って来る。真耶佳は未だ、綾の顔を知らない。
「綾、様…?」
「真耶佳、初めまして。驚いた?」
綾は悪戯っぽく笑うと、僕が綾だよ、と言った。碧い髪、碧い目に真耶佳が驚くのを、楽しみにして居たらしい。
「綾様、幼い頃遠くから見た通りの方ですわ」
「ああ…、真耶佳は幼い頃は僕達が見えて居たんだっけ」
少し期待外れの様な綾の、小さな溜息。けれど真耶佳は、そんな事には気付かず綾の美しさに感服して居る。
「亜耶が、褒めちぎる理由が佳く分かりました…」
「何、其れ。亜耶、代わるよ」
綾が小さく笑って、亜耶を呼び寄せた。すると少し眠そうな風情の亜耶が、水鏡の前に座る。
領巾で口を覆って、欠伸を隠し乍ら亜耶は澪に左手を見せる様言った。
「亜耶さま、有り難う御座います…!」
「その赤の方が似合って居るわよ、澪」
其れに、衣も大王から頂いた物なのね、と亜耶は目聡く見付けて微笑ましげな顔をする。澪は、慈母の様な亜耶に頬を染めた。
「也耶も、元気そうね。お包みから片足だけ出ているわ」
「ええ、最近寝返りを打つので…包んでも体勢が変わってしまって」
澪が言うと、何故か也耶は片足を引っ込める。起きて居るのか、と思えば眠って居る。赤子とは、不思議な物だ。
「亜耶、お疲れ様」
不意に声が掛かり、乳母の間から戻って来た時記が当然の様に澪の隣に腰掛ける。揃いの衣を着て居るのを、亜耶に見せたかったと言って。
「私がしたのは、異世火を熾す事だけよ」
濃紅の上衣の侭、亜耶は宴の様子を掻い摘まんで話した。勿論、餅の事は伏せて。
「其れより兄様、汗を掻いて居られるわね」
「先程まで、剣舞を見せて呉れていたのです」
澪が嬉しそうに、時記を横目に見乍ら答える。正式な妹背の言挙げ、年越しに剣舞。勿論宮内に異世火は飛ばしただろう時記は、汗を掻くぐらい当然かも知れない。
「所で亜耶さま、陸で何か有ったのですか?」
澪は、疑問を率直に口にする。綾が女御館に居たのは、其れが理由だろうと気付いて居るのだ。
「…綿津見神様の御使いをね、陸の子供が銛で突いて食べて仕舞ったの。美しい魚だから、新年の祝いに、って」
「え…?」
今度は、声を発したのは真耶佳だった。其れでは、海が荒れるのか、と。
「明日は潮流が強いから、お父様の乗る舟は勇魚が護って呉れるそうよ。杜には結界を張らなければ…」
「今、大龍彦と大蛇が遣ってるよ」
また、綾が答える。陸にも、其の子を除いて結界を張らねばと。
「潜れる様になったばかりの子供だから、何を獲っちゃいけないのか知らなかったんだ」
「けれど、綿津見神様は…」
「うん、お許しにならないよ」
綾は言うだけ言って、水鏡から消えた。残された澪達は、顔を見合わせるばかりだ。
神の怒りを買う事は、無知すらも罪になる。そんな厳しさを目の当たりにした、宮の面々だった。