九十五、東雲
大晦の宴の舞台に座った亜耶は、あれは澪に届いたかしら、と呟いた。聞こえたのは大蛇にだけで、巫王や小埜瀬は族人達の声に耳を取られて居る。
「澪の場合、明日送る物のが喜びそうじゃねえか?」
笑い乍ら返して来た大蛇に、亜耶は確かに、と心の中で呟く。澪は、杜の食べ物を送ると酷く喜ぶ。また、族では新年の必需品の為、真耶佳や月葉も喜ぶだろう。
「…お前は要らねえのか、糸」
「何故?」
「いや、何故って…」
大蛇が不意に吐いた言葉に、亜耶は目を丸くする。其れから、ふと気付いて亜耶は、菫青石の勾玉を抓んで持ち上げた。天青石の連玉で彩られた其れは、夜の闇の色。
「私には、此れが有るわ」
幼い頃からね、と亜耶は大蛇に微笑む。
「此れが有る限り、私は大蛇以外の手には落ちない。綿津見神様との約束の品だわ」
「…そうか」
少し詰まらなそうな顔をして居た大蛇も、亜耶の言い分には納得した様だ。亜耶には生まれながらの勾玉が有る。糸など結ばずとも、大蛇の物だと。
そうこう言って居る内に、階の下、厨の方から餅米を蒸す香りが広がって来る。餅米は草片と共に届けられた、陸からの供物だ。年に一度しか嗅げぬその香りに心惹かれて大蛇の様子を伺うと、大蛇は諦めた様に溜息を吐く。
「食いてえのか、餅」
「ええ…」
「いつもはそんなに好まないだろう?」
でも何故か食べたいの、と頬を赤らめる亜耶に、大蛇はもう一度溜息を吐く。
「一番鶏が鳴くまで、居るんだな?」
「大蛇が許して呉れるなら、だけれど…」
東雲を見て終わる気だった亜耶だが、今年は餅の匂いが魅惑的過ぎるのだ。例年は腹に重いからと避けてきた餅だが、何故か恋しい。
「まあ、俺も魚醤で食う餅は嫌いじゃねえ」
大蛇が仕方無い、と諦めた所で、巫王が舞台に立ち上がった。亜耶も共に立ち上がり、巫王の御館の周りに集まった族人達に異世火を散らす。火瓶は其処此処に置いてあるが、冬の寒さの中では物足りないだろうと。
去年までは、異世火を散らす中に時記も居た。其れを思い出した亜耶は、少し宮の様子が気に掛かる。
宮では今宵、夜を徹して時記と澪の祝いをすると言って真耶佳が張り切って居た。一番鶏が鳴く前に、水鏡を揺らしてみよう。亜耶はそう思って巫王が歌い舞うのを見た。
一人舞いになって仕舞った巫王は、其れでも気丈に大祓を終える。巫王は明日陸にも赴くので、酒は無しだ。小埜瀬は既に酔った様子で手を叩いて居る。しんねりと巫王が小埜瀬を眺めて居るのは、気の所為では無いだろう。巫王とて、弱いとは言え酒好きなのだから。
暫くして、東の空が仄白く明るんできた。
「大蛇、見て。東雲よ」
「ああ、新しい年が明けたな」
そんな遣り取りをして居ると、何かを笹の葉に乗せて捧げ持つ厨の番人が目に入った。番人は其の侭巫王の御館の階を上り、亜耶と大蛇の元に遣って来る。
「え…?」
「一番鶏は、未だだが…」
目の前に置かれた薄紫色の餅に、亜耶と大蛇が驚いて声を上げた。厨の番人は、巫王様のお計らいです、と言って下がって行く。
二人して巫王の方を見ると、和やかな笑顔が目に入った。亜耶の体を気遣って、早めて呉れたのだ。
亜耶と大蛇は感謝して、一年振りの餅に手を着けた。黒米が練り込まれた餅は、衝く内に薄紫の色になる。魚の杜の秘伝の配合だ。
此れまた秘伝の魚醤に付けて食べれば、衝き立ての餅の甘さが口に広がった。亜耶は族の物以外の魚醤を好まないが、大蛇も他の族の魚醤は生臭いと言う。厨の秘伝は外に漏らしてはならないらしく、大蛇も作り方を知らない。陸には数年前から、甕ごと魚醤を送る様になった。
真耶佳の輿入れにも魚醤は甕ごと付いて行き、そろそろ無くなりかけだと言う。明日には、巫王が陸からこの配合の餅米と婆の縫った衣を宮に向けて送る。序でに、魚醤も。
「澪は、最初羹の味付けが魚醤だと言ったら、食べるのを躊躇したのよ」
「でも香りに負けて食べたんだろ?」
「ええ、そう」
一年も経たない、初めての妹姫との思い出。あれは初夏の話だ。懐かしく思い出した亜耶は、一口大に千切られた餅を口に含んだ。