九十三、笑み
杜は、大晦に沸いていた。老いも若きも、夜通しの宴を楽しみにしているのだ。
厨では茸粥が炊かれ、もう少しすれば氈鹿も焼き始めるだろう。年に一度の御馳走を心待ちにするのは、子供ばかりでは無い。亜耶も感慨深く、此の一年の終わりを思って居る。
真耶佳からもたらされた大王達の内襟の話は、朝の内に婆に伝えて置いた。高貴なる方は、お考えに成る事も品が良い。婆はそう言って、内襟の繕いを快く受けて呉れた。
「澪は昨日、初めて氈鹿を食べたのだそうよ。大王が御用意下さったのですって」
「昨日?何でまた…」
「今夜は大王は祭祀だわ。その上、夜が明ければ四方拝よ。昨日の内に済ませたのでしょう」
大蛇と話し乍ら、亜耶は今宵の為にと婆が仕立てた衣を身に着けていく。大蛇は、新品の衣は固辞したのだそうだ。
「澪は何つってた、氈鹿?」
「美味しかった、って。大王に上座に座らされた時は、慌てたらしいけれど」
宮での直会の様子を想像して、亜耶は柔らかく笑みを零す。其の顔に見とれた大蛇が、顔を赤くするのも気にせずに。
「其れでは大蛇、私は化粧場に行って来るわ」
「お、おう…」
濃紅の温かな上衣を着けた亜耶を見送り、大蛇は先程の柔らかな笑みを思い出して顔を覆った。惚れた弱み、である。
亜耶は朝一番には湯殿で身を清めて居た。なので、向かうのは真っ直ぐ、奥の化粧場だ。着いたら女達に、髪結い台へと導かれる。
「余り油を付けないで結って貰えると、嬉しいわ」
「この時期は油浮き致しますから、油は使いませんよ」
寒さで、油脂が白く成ってしまうのだ。舞台の上ならば目立たないやも知れないが、違和感は有るだろう。亜耶の髪は、油を使われる事無く結われていった。
「さ、亜耶さま、同時にお顔の方も」
独り切りの巫女姫には、化粧場の人数は多過ぎる。同時進行で亜耶は眦に朱を入れられ、紅を刷かれた。
「矢張り、お美しい…」
「ええ、子を得て更に美しさが増して居ります」
「…有り難う。でも今年の大晦は淋しいわね」
真耶佳が居無い、八反目は果敢無くなった。時記は真耶佳と澪と共に、遠い纏向に居る。毎年宴を沸かせていた者達が、今は居無い。舞台に上るのは、巫王と小埜瀬、亜耶と大蛇だけだ。
「皆、馴れますわ」
「そうだと良いけれど」
亜耶は淋しさを押し殺し、女達に礼を言ってから女御館に戻った。皆、例年と同じ様に楽しんで呉れるのか。亜耶は、一抹の不安を感じて居た。
不安の理由はきっと、直会を知らせて来た澪の嬉しそうな笑顔だ。今、杜には無い華やぎ。亜耶も笑顔は浮かべるが、澪の様に自然に出来るのか。
そんな事を思って居たのに、大蛇の口から出たのは思いも拠らない言葉だった。
「お前、先刻みたいな無防備な笑み、俺の前以外ですんなよ?」
「………は?」
族人に笑い掛けてはいけない、と言われた訳では無い。無防備な笑みとは、と云うのが亜耶の心情だ。
「先刻、澪の話した時に…」
「笑って居た、私?」
「ああ」
無自覚って怖えな、と大蛇が言う。止めようが無いからだ。不安を不審に変えた侭、亜耶は大蛇と迎えの者に従い、巫王の御館へ向かった。