九十一、大王の寵
亜耶の言った善事は、確かに真耶佳に取っては善事で有った。しかし、杜では長い準備期間が必要になる。十年経ったら御館を建て始めよう、と巫王は思った。
そして禍事。族に取っては禍事とも言い切れない其れは、真耶佳にどんな影響を及ぼすのだろうと巫王は慮る。何れ真耶佳にも伝えると亜耶は言ったが、恐らく其れは禍事が起きてからの事。
余り心が強くない長女に、巫王の心配は尽きる事が無い。
宮には未だ、黒い針が飛び交っていると聞く。其れを見るには真耶佳は耐えられるが、子生みの時にどんな作用をするのか。
宮は亜耶の力が上手く働かぬ故、黒い針を送り主に返す事も難しいと云う。巫王も試してみたが、結果は同じだった。
「八津代、考え込みすぎだ」
先程亜耶を休ませろと言った大蛇が、今度は巫王の心配をする。
「そうよ、お父様。真耶佳は昔の臆病な真耶佳とは違うわ」
「大王は此の禍事を、如何お考えになるか…」
「真耶佳と其の子への寵は、変わらないわ。寧ろ今よりもっと護りを強めて下さる」
亜耶は、禍事より善事の方が気になって居た。上手く遣らなければ、今まで躱して来た豪族達の刃が向く。そうさせぬ為には、自然なお代替わりが必要だ。
澪が今孕んでいる子は、先見に長けて立ち回りが上手いと也耶が言って居た。水鏡を其の子に任せ、他の子は杜へ帰るのだ。
「お父様、澪の子達だけれど…長男を残して杜へ帰って来るわ」
「おお、そうなのか!」
「御館を建て始めるのは、もう少し前でも良いかも知れないわね」
先程巫王が十年と思ったのを、亜耶は見たのだ。
「何軒要る」
短く聞いた巫王に、亜耶は答えない。也耶への約が此処まで及んでいるのか。
「…一人は、暫く男御館で良いと思うわ。直ぐに御館が必要になるけれど」
「其れでは…」
「五軒、かしら。総て出来上がっている必要は無いと云う事よ」
真耶佳の御館は、呉々も美しく。そう言った亜耶に、巫王は頷いた。
「其れから、お父様。大王の宴の場では、澪を探す西の族の長と会うわ」
「西の族の長…?坐安王か。一体何故」
「澪の父親よ。澪は奴婢たる母が、族の王子と妹背になれるなんて愚かな夢を見たと言って居たけれど、違ったみたい。王子の愛は本物だったのよ」
今、幸せだと伝えて上げて。亜耶の言葉に驚きを隠せぬ侭、巫王は女御館を辞して言った。
巫王が帰った後、大蛇は不服そうだった。折角休ませる様言ったのに、亜耶が闇見をしたからだ。
「大蛇、機嫌を直して。今後はお父様の急な訪いも減るわ」
「俺が望んでるのは其処じゃねえ…」
「其れより私、眠たくなって仕舞ったわ。暖めてよ」
亜耶が休む意思を示した事で、大蛇の表情が少し和らぐ。寝座の上の熊の敷物を整え、夜具を引き寄せてから、来い、と言った大蛇は、身を以て亜耶を暖めて呉れる様だ。
火瓶の側から動けなくなって居た亜耶には、嬉しい限り。出された手枕に頭を乗せると、大蛇が後ろから抱き締めて来る。愛おしげに亜耶の腹を撫でて、首筋に顔を埋めた様だ。
「暖かいわ」
「こうしてて遣る。ゆっくり眠れ」
うっとりと目を閉じた亜耶は、善事の起こった後の夢を見た。杜に居る皆が、幸せに笑い合う夢だった。
その頃になっても、長はまだ巫王。杜の民の長命と、亜耶の引き延ばされた生を思い起こさせた。皆に交ざって、綾と大龍彦も神殿の側で笑って居る。亜耶は幸せが長く続けば良い、と夢現で願った。夢の片隅には、大丈夫、と笑う鯰髭の好々爺が居た。