八十五、小さな族
ねえ綾、と神殿に着くなり亜耶は声を掛けた。綾は気にした風も無く、何、と返して来る。
「何で豊玉比売様を凍て付かせたの?」
訊いた途端、綾は目を逸らした。神殿から出て来ようとした大龍彦まで、何故か気不味そうにして居る。
「昔の事だよ…」
「どの位昔なの?」
「神代の頃…豊玉比売様も夫を迎える前」
そんなに昔の話だったの、と亜耶は目を瞠った。しかし何故、には答えて呉れない。
「其れより、八津代の持って行く魚の話でしょ」
「ええ…十日ほど凍て付かせて呉れれば良いのだけど」
亜耶も魚を凍て付かせられないでは無いが、十日持つかと言われれば不安が残る。綾に頼む方が安全だ。
お安い御用だよ、と綾はやっと笑った。話が逸れたのを見越したか、大龍彦も神殿から出て来る。
「貝の類いは俺が獲ってやる。この時期、あんまり長くは海に居られねえだろ」
「そうね、舟の上から魚を呼ばうのが主になると思うわ」
冬の漁りは、厳しい。亜耶も巫王も、族人が無理をする事を望んでいる訳では無いのだ。大龍彦の提案は、有り難いと言える。
「量は、どの程度要る?」
「宮に居るのが、三十人前後だと云う話だから…」
「そうか、じゃあ種類は多い方が良いな」
綿津見のおっさんにも確認しとかねえと、と大龍彦は言う。神に供えるのと、杜の民が食べる量の収穫しか想定して居無いのだそうだ。
「いっそ、季節毎に旬の魚を送れば良いのに」
綾があっさりと言うが、そうまでしたら宮の負担だろう。魚の杜を忘れさせないのは良いが、元々海の幸が貴重な地だ。大王も何か対価を、と思いかねない。返礼が無い程度に持って行くのが、平和なのだ。
「そうか、返礼なんか有ったら豪族に目を付けられるんだね」
「ええ、只でさえ急に后を出しているし、余り目立ちたくは無いわ」
面倒だねえ、と綾は惘れるが、小さな族には切実な問題だ。闇見や卜で、遠目に敬われている位が丁度良い。
真耶佳の子が次の大王になっても、魚の杜は関係無い。其れを貫き通す為にも、宮とは距離を取るべきなのだ。
「でも、年に一度は行くんでしょ?」
「其れは…行かない方が目立つわ」
だから今回巫王にも、出席を求めた。まさか宮に泊まる事になるとは思わなかったが、后の父ならば一度位は許されよう。時記が以前の小埜瀬の様に席を埋めれば良かったのだが、大王に連れ歩かれるとなれば其れも無理。巫王としては、苦渋の選択だった。
「大王は、魚の杜を重用する傾向が有るよね」
「そうなの…真耶佳が愛され過ぎて居る所為だわ」
宮に居る間は、仕方無いわね。亜耶の諦めた物言いに、綾と大龍彦も頷く。今の所、真耶佳は大王の女達から僻まれて居るだけだ。族にまで被害は及ばない。
其の侭、豪族の目を逸らし乍ら代替わりすれば、とは亜耶の希望だ。
「でも、亜耶も行くよ。子生みが落ち着いたら」
綾が遠い未来を見て言う。長が行くより、其の方が魚の杜は良いから、と。
「私が、宮に…?」
「そうだよ、大蛇と一緒に。真耶佳や澪に会える、羨ましいよ」
綾と大龍彦は、神殿に縛られ此の地を離れられない。其れで無くても、長の陸路は行けない二人だ。
少し淋しそうな綾を見て、何れは行かねば為らないのだろうと亜耶は覚悟を決める。そして此処へ帰るのだ。沢山の土産話を持って。