八十四、忌みの戻り
珍しく朝餉と昼餉を辞退した澪が、月の忌みが来ると言い出した。子を生んで半月、産婆が言って居た頃合いよりは早いが、丁度良い時期なのだろう。
忌屋には、也耶も連れて行く。そう言うと、宮の面々は少し淋しそうな顔をした。しかし他に乳を遣れる者が居無い以上、そうする他無いのは皆知っている。
「澪さま、私も一緒に行きましょうか…?」
喬音が心配そうに言うが、彼女の忌みはまだ少し先。澪は大丈夫、と微笑んで宮の事を任せた。
澪が宮の忌屋を使うのは初めてだ。越して来て直ぐ、也耶を孕んだから。其れでも忌屋に守人は居ると云うし、澪はそう心配していない。
「澪、忌み籠もりは何日くらいだい?」
杜に居た時の澪を殆ど知らない時記が、不安げに訊いて来る。二晩したら、昼頃に戻って来る。そう答えると、時記は少しほっとした様子になった。
しかし也耶が生まれてから、一度たりとも離れた事の無い時記だ。淋しい二晩と言えよう。
「時記さま、大王に宜しく仰有って下さいな」
乳母の間で貫頭衣を着け、上から帰りの衣と裳を着けた澪が笑う。澪に取っても、時記が居無い淋しい二晩なのだ。時記の口づけを受け乍ら、澪は早く戻りたい、と思った。
澪を欠いた宮の有様は矢張り淋しく、夕餉の席も心なしか静かだ。大王の出迎えはまた月葉が代わるとして、也耶が居無いのは大王も残念がるだろう。
「暁の王は、寝る前に也耶を愛でるのが習慣になって居たものね…」
「私も、乳母の間の寝座が広く見えるよ」
親子して、宮に安らぎを与えていたのだと気付かされた、今日。案の定、大王は来るなり澪と也耶は如何した、と慌てた。
「澪さまと也耶さまは、月の忌屋にお籠もりです」
言って居る月葉も、少々元気が無い。だが其の言葉で、大王の狼狽も少しは落ち着いた様だ。熱でも出したか、と心配したそうだ。
「しかし、月の忌みが戻ったと云う事は、也耶の兄弟も遠くないな?」
大王が、時記を見て朗らかに言う。時記も、妹姫がそう闇見して呉れました、と応じる。
「楽しみが増えた。佳き日よ」
「暁の王ったら…気が早いですわ」
私の子生みも、まだ先なのに。真耶佳が窘めると、大王は気が急いた、と笑った。こんな処が、大王と巫王は似て居る。時記は、真耶佳が大王を受け容れた理由が少し、分かった気がした。
澪は忌屋で、也耶に乳を遣って居た。何も食べないのは杜の忌屋の掟。しかし乳を遣る身としては少し苦しく、腹の虫が鳴る。
丁度居合わせた湯殿の端女が、気を遣って自分の分の水も澪に寄越そうとした。
「良いのですよ。普段食べている分、乳は未だ出ますし」
澪が恥ずかしげに断ると、端女が暇潰しに也耶を診て呉れる。育ちも良く、暖め過ぎなければ汗疹の心配も無い。肥り過ぎても居無いし、痩せ過ぎても居無い。体温も子供の方が高いもの。
その様に教わって、澪は笑顔になる。端女も元々よく笑う女だから、杜の物より遙かに狭い忌屋は笑い声に満ちていた。
中央に火瓶が置かれて居るので、忌屋の中は宮より暖かい。宮の静けさを余所に、澪は賑やかな二晩を過ごして仕舞った。
「澪さま」
気が付けばあっという間に二晩は過ぎていて、守人に名を呼ばれる。端女は忌みが長いのだと言って、未だ残るそうだ。
「湯殿に寄って帰られると宜しいですよ」
「ええ、そうします。有り難う」
澪は笑顔と共に忌屋を後にして、守人の心をも掴んだ。本人はそうとは知らぬ侭に。
宮に戻る前に、湯殿。端女に言われた通りにして、澪も也耶も綺麗にして貰う。戻った宮では何故か歓待されて、何も知らない澪は途方に暮れるのだった。