八十三、鰐
大蛇は宮で噂されているとも知らず、狩人達と交渉していた。巫王に新しい毛皮の襲を作るから、氈鹿の毛皮を呉れと。
すると狩人達は、毛皮の始末は厨の仕事だと言う。言われる侭厨に赴いた大蛇だったが、此方も空振り。毛皮は厨から機織り場に渡り、要不要の判断をされるそうだ。既に何枚かは機織り場に回したと言うので、大蛇は次はそちらに赴く事にした。
機織り場では、巫王の襲を縫いたいと言ったら機嫌良く毛皮を貰えた。お子の分もどうぞ、と端布まで。
「まだ薬草での処理はして居りませんので…」
申し訳なさそうに言う織り部に、大蛇は自分で遣るから良い、と答えた。また、真耶佳の間の出番だ。
目的の物を手に入れた大蛇は、軽い足取りで女御館に戻って来た。
「亜耶、八津代の襲を縫うっつったら、毛皮貰えたぜ」
「まあ…量が多くない?」
「一番良い部分だけ使うんだ。魚の杜の長の襲だからな」
大王の宴に着ていくのだから、其れ位贅沢でも良いのかも知れない。大蛇の自信に満ちた物言いに、亜耶も徐々に納得していった。
「真耶佳の間、使うんでしょ。今回も乾かす?」
「いや、今は風が乾いてるから、余計な霊力は使わなくて大丈夫だ」
分かった、と亜耶は答えて、運ばれてきた昼餉に目を遣った。匂いからして、山羊の乳の粥。此れも宮からもたらされた調理法だ。細かい塩漬けの草片が入っている所を、亜耶は気に入って居る。
先に食ってろ、と大蛇が言うので、亜耶は温かい内に食べて仕舞う事にした。
乳粥には鶏の焼き物も付いていて、亜耶は腹一杯になった。亜耶の好きな笹身の焼き物。ついつい平らげて仕舞った。其処に、毛皮を干し終えた大蛇のお戻りである。
「大蛇、久し振りに鶏よ」
「久々の肉だな。良い焼き色じゃねえか」
亜耶もそう思って、少し食べ過ぎたのだ。今、胃の腑が迫り上がっている事も忘れて。
「平らげるなんて、珍しいな」
「今、後悔して居る所よ…喉元まで苦しいわ」
其れを聞いて大蛇は、吐くなよ、と心配そうに言った。元から吐き悪阻では無いので、大丈夫、と亜耶が答える。
其れにしても、もう鶏を潰す季節なのだな、と亜耶は思う。元々魚の杜でも養鶏は遣って居るが、冬以外は卵目的だ。族人全員の分は採れないので、よく白粥に溶き入れられている。鶏には暖める卵と暖めない卵が在り、暖めない物だけを採らせて貰う。ところが籾殻を与えられる秋から冬にかけて、老いも若きも鶏は肥る。必然的に、殖え過ぎた老鶏を食べるのは冬と言う事に成るのだ。
我が子に会えるまで、もう少し。亜耶は真耶佳よりも早く、子生みを終えて仕舞うだろう。
今の所、亜耶が自分の子生みに関して闇見して居る事は特に無い。綾達も何も言わぬので、難産では無かろうと云うのが巫王の見方だ。
「そう云えば大蛇、綾はどの位の大きさの物まで凍て付かせられるの?」
「あ?何だ急に」
宮では、出て来る魚が新鮮では無い。其れは真耶佳も不満に乗せていた事。時記が行って、巫王は更に其の事が気になる様になったらしいのだ。
「出立直前に上げた魚を凍てつかせて、宮まで運びたいのですって」
此の時期の魚は、脂も乗って大きいでしょう、と亜耶は大蛇に言う。大蛇は、雑魚は持って行かないのか、と不思議そうな顔だ。
「冬の漁りで、態々雑魚は呼ばわないと思うけれど…」
だが、時記も魚が好きだし、宮にも汀で育った族人は居る。持って行けば雑魚でも喜ばれるのは、目に見えているのだ。
「ううん…綾は昔、大きな鰐を凍て付かせたな。あれに比べりゃ此の時期の魚くらいは…」
「鰐…?何で…?」
「喧嘩したんだとよ」
まさかその鰐、豊玉比売様じゃ無いわよね、と訊いた亜耶に、大蛇は答えない。
「凄かったぜ…入り江に白い腹を上にして浮かぶ大鰐…」
「勇魚まで凍て付かせないわよね…?」
「大丈夫だ。勇魚は気性が穏やかだから、喧嘩にはなんねえ」
そう云う問題か。綿津見神の娘を凍て付かせて置いて、使いの勇魚とは上手く遣る。少し、綾が理解出来ない亜耶だった。
「ま、兎に角、八津代が持って行く魚くらい何とも無えよ」
「ねえ、豊玉比売様はどの位の間浮かんでたの…?」
二月位だ、と大蛇はあっさり答える。其れなら宮までの道程も充分魚は保つと確信した亜耶だったが、二月も綿津見神が黙って居たのにも不思議を覚える。潮の満ち引きを司る豊玉比売なのだから、困りはしなかったか、と。