七十七、巫覡の最期
大蛇が、山で訓練せずとも跑足で走る白馬を見付けてきた。木の上から飛び乗ると、白馬は大人しく人里まで下りたと云う。
大王は先の騒動で、愛馬を亡くしている。真耶佳の子が生まれた時、祝いとして贈るのに良いのでは無いか。巫王の一声で、美しい白馬は今、厩でも別格の扱いを受けている。
綿津見神から、国つ神を通しての贈り物。新たな愛馬とはならずとも、厩の隅に花を添えよう。
「群れからはぐれて、山脈を越えてきたのかしら」
「ああ、そうだろうな」
魚の杜は、大きな半島の突端だ。陸路を行けないのは、半島を横断する山脈の所為。大蛇曰く、山脈の向こうは暫く高原が続き、其の先には更に厳しい山脈が有ると云う。
「山脈を越えて、大蛇に見付けられたのね」
今の所、白馬は人に従順で、野生かと疑う程手が掛からないと云う。大蛇が近付くと喜ぶらしいが、主と認めて仕舞っては大王に贈れない。その為、厩からは煙たがられて居る様だ。
「俺が拾った馬だってのに」
そう言い乍らも、大蛇に取っても大王の印象は悪くは無い。自分からしても、近しい杜の者達の世話をして呉れて居るのだ。恩に思わない筈も無い。
「真耶佳の子生みは至難よ。其の後届いた馬なら、大王も大切にして下さるわ」
「もう見えてるのか」
「ええ」
産後の真耶佳を連れて遠駆けする所がね、と亜耶は笑う。
「乗って貰えるのか!」
どうやら大蛇は、白馬が厩の隅で年を重ねていくのでは、と案じて居た様だった。其の心配さえ無ければ、白馬が大王の元に行くのに文句は無いと。
「じゃあお父様には、大蛇が白馬の受け渡しに賛成したと言って置くわ」
「ああ、頼んだ。所で今日、八津代を見掛けないが…」
巫王は今日、陸に行っている。大鏡が出来たと言われ、確認の為に。問題が無ければ、其の侭宮に送ると。
「羽張さまの手鏡を渡した時にね、お父様と話したの。羽張さまは、私を可愛がって下さったのね、って」
「ああ、羽張はあの女に見放されたお前を、自分の娘とまで言ってたな」
「お父様は、ただ笑っただけだったわ。見た事も無い、哀しい顔で」
亜耶は話し乍らふと、遠い目をした。巫王の大切な記憶。愛しい女。きっと今頃は、綿津見宮で巫王を待って居る。
魚の杜の巫覡の最期は、哀しい。勾玉を残して、其の身は白砂へと還るのだ。白砂は白浜へ撒かれ、其れを以て追悼とする。
羽張は巫女では無かったが、邑内に墓は無い。きっと綿津見神の思し召しで、白砂になったのだ。嬉し哀し、巫王は其の時に、長の自覚を得たのだろう。
「時記は、見た目も性格も母親似だよな」
「そうなの?」
「ああ、目元や物腰なんかが良く似てる」
羽張も、産褥に倒れなければもっと良い晩年を過ごせただろう。羽鳥を望まれない女に仕立て上げる事には、成功したのだから。尤も、羽鳥が剰りに非道い女だったから、巫王が其の事実を白日の下に晒しただけなのだが。
「八津代も方々手を尽くしたんだがな」
「そうなのね…」
若い頃の巫王の手に、どれだけの権力が有っただろう。魚の杜で初の男長。周囲の族からは、距離を置かれたかも知れない。今でこそ巫覡の先頭に立っているが、族内での扱いも如何なものだったか。
やっと女児に恵まれても大王に輿入れする姫が先に生まれ、霊力は持って居無い。二年後に亜耶が生まれて漸く、巫女姫を得たのだ。以前は三日三晩の宴など大袈裟な、と思って居たが、今ならば分かる。
望まぬ婚いの果ての亜耶の誕生が、今の巫王を生んだのだ。何とも皮肉な結果と言える。
愛しい女は守れない。望まぬ女との子が、族の統率力を高める。若き巫王は、相反する結果に叫び出したい日も有ったのかも知れない。