七十五、手鏡
亜耶は、巫王に託された手鏡を持って神殿に来て居た。代わりに浄めて来て呉れ、と頼まれたのだ。
「懐かしい…羽張の物だね」
聞いた事の無い名に、亜耶が首を傾げる。綾は、八反目と時記の母の真名だと教えて呉れた。羽張は杜に嫁いだのだからと、熱心に神殿を訪れて居たと云う。
「時記に似た、穏やかな女だったよ」
「お父様は、羽張様がお好きだったのかしら?」
うん、と綾は頷く。羽張と羽鳥は同時に娶られたけれど、巫王の愛情は羽張に向いたんだ。綾は、そう言訳する。羽鳥と云うのは、真耶佳と亜耶の母だ。
「羽張は愛されたけれど、女子に恵まれなくてね。八津代は仕方無く、羽鳥とも婚ったんだ」
羽鳥は羽張の妹姫だったが、真耶佳を授かった事で羽張を見下す様になった。時記を生んでから床に就く様になった羽張には、為す術は無かった。巫王の御館では羽鳥が幅を利かせ始め、肩身の狭い晩年だったそうだ。
「羽鳥は八津代の言う事なんか、聞く女じゃ無かったからね。羽張に愛情を傾ける八津代をいつも責めてた」
「其の結果が、女御館への籠もり?」
「そう。羽張が果敢無くなっても自分を見ない八津代に、反発したんだ」
亜耶の名付けもそう、と綾は言う。亜耶を孕んで別人の様に肥り、其れも巫王の所為だ、と。大闇見を生んだと喜ぶのに、羽鳥への扱いは冷たいと態と貶める名を付けた。
「傍迷惑な女ね」
「陸の元長…亜耶達の祖父だね。其れが、羽鳥の方が美しいって褒めそやして育てたんだよ」
亜耶を人質に取る様に女御館に居を移し、巫王の訪ないを待った。亜耶を中央の間に置き、端の間に居る真耶佳にだけ美し言を送り続け乍ら。
「羽鳥が真耶佳にだけ愛情を注ぐから、八津代も亜耶を取り返そうとしたんだけどね」
弊害になったのは、既に物心が付いていた八反目の、亜耶への執着だった。同じ御館の中で育てるのは、問題が有ると巫王は判断したのだ。
結果、巫王は定期的に真耶佳と亜耶を訪ねて女御館に通ったと云う。勿論、巫王は我が侭な羽鳥には目も呉れなかった。
「幼い頃、お父様が来るのが楽しみだったわ」
「羽鳥が亜耶を置き去りにするから、僕等もよく女御館に行ったよね」
「嵐の夜に綾と大龍彦が添い寝して呉れるの、嬉しかった」
あの頃は嵐が楽しみだったわ、と亜耶は笑った。其れを聞いて綾が、亜耶の頭を撫でる。其れから渡された手鏡に視線を落とし、八津代は未だ持ってたんだね、と言った。
少し錆が出た銅鏡は、充分に浄められるという。也耶に贈るのだと言ったら、綾は酷く納得して居た。
「時記も母を慕って居たし、嬉しいだろうね」
綾の手の中で光り出した手鏡に、亜耶は視線を奪われる。古い物だったが、新たな命が吹き込まれるのだ。
「はい、終わったよ」
錆びて良く見えなかった細工も、綺麗に見える。羽を張った鳥、羽張の名に因んで持たされたのだろう。綾が差し出して来るが、巫王が大切にして居た物と知ると受け取るに躊躇して仕舞う。
「八津代は、亜耶に任せたんでしょ?」
「そう、だけれど…」
自分が受け取って良いのか。亜耶は、巫王に浄めが終わった事を報告するに留めた方が良いのでは、と思い始めて居る。
「亜耶、八津代は知って欲しかったんだと思うよ」
そう言われて、亜耶は手鏡を受け取った。すると、眼裏に甦る記憶。淡い色の髪の美しい人が、床で起き上がって亜耶を抱き締めてくれた。可愛い子、と言い乍ら。
「私、羽張さまに…」
「可愛がられてたよ、心から」
そう、そうなの、と。亜耶は手鏡を両手で胸に押し付ける。数少ない、温かい記憶。此れが也耶に渡るなら、こんなに嬉しい事は無い。
「有り難う、綾」
「如何致しまして。さ、八津代に届けて上げて」
亜耶は頷いて、女御館で待つ巫王の元へと急いだ。