七十三、年の瀬
もう直ぐ、大晦だ。其の夜は徹して宴が行われ、新たしい年が来るを祝う。勿論亜耶も、毎年参加して居た。夜が明ければ舟で漕ぎ出し、綿津見宮に供物を捧げに行く。其れも亜耶の役目だった。
しかし今年は、亜耶の腹が大きくなって居るから巫王が代わると言う。宴の欠席も、打診された。巫王の御館の階が危ない、と云うのだ。
潮に神饌を捧げるのは、確かに体が冷える。そちらは代わって貰えるのなら、と了承した。しかし、宴には、或る程度出なければならないだろう。夜通しは無理だとしても、せめて年が明けるまで。
「亜耶が出ないなら、俺も出ねえぞ」
舞台の上に、巫王と小埜瀬だけでは見栄えが悪い。巫王も其処は分かって居る。大蛇が加わった所で、族人は亜耶の不在を不自然に思うだろう。
「お父様、私は年明けまでは居るわ」
「そうか…身は冷やさぬ様、後ろに火甕を置こう」
何処かほっとした表情で、巫王は引き下がった。亜耶の退席に合わせて、大蛇も退く。話はそう、纏まった。
宴の為に、邑の者達は既に氈鹿を捕りに入っている。陸からは、多量の草片が届いた。年が明けると陸にも祈りに赴くからだ。
「陸には八津代が行くのか?」
「ああ、私が行く。誰も行かぬでは、相撲の力士達が哀れだからな」
「巫覡を哀れだなんて、言ってはいけないわ」
亜耶が諫めると、巫王は軽く肩を竦めた。衣を纏わず相撲をする様は、寒空の下では哀れだと言いたかったのだろう。しかし彼等の肉は厚く、勝負の前には肌から湯気が上がるのを、亜耶は知って居る。大山が動くが如く、ぶつかり合えば地が揺れる。次の年には見られないのか、と少し残念に思った。
力士は巫覡故に、亜耶に触れられる者も居る。幼い頃に抱き上げて貰ったので、親しみは有るのだ。無論、今は抱き上げて欲しいとは思わないが。
「相撲と云うのは、夏に見ると暑いが、冬に見ると寒い物では無いか?」
「そんな事無いわよ。ねえ、大蛇?」
何故、俺に振る。そう言いたげな大蛇は、夏には暑いな、と答えた。
暫く陸には荷が行って居無い。届けられるばかりだ。澪の子生みへの祝いは、届いた気配は無い。
「お父様、也耶の耳飾りは手配出来たの?」
「ああ、もう出来上がっていると陸から知らせが来た」
「階の大鏡の他に、也耶にも手鏡を贈らなければ駄目よ?」
亜耶がそう言うと、巫王は失念して居たと慌て出した。巫覡には鏡は付き物だと云うのに。 一応確認して良かった、と亜耶は胸を撫で下ろす。
「也耶は年の瀬生まれだから、一月もせずに数えで一歳になるのね」
私と真耶佳の子の方が、一つ年下だわ。腹を撫で乍ら亜耶が言うと、巫王が確かに、と頷いた。
「水鏡越しの幼馴染みね」
「どちらも巫覡、と云う事か?」
「ええ、大蛇にはもう話したのだけれど」
そうかそうか、と巫王は嬉しげに表情を崩す。待ちに待った孫は、男子でも女子でも構わない様子だ。亜耶は何れ巫女姫を生むが、其れは今回で無くても良い。そんな愛情を感じて、亜耶は少しほっとした。
「手鏡は…」
「え?」
「時記の母の形代でも良いだろうか」
巫王が自分の妻達の事を口の端に乗せるのは、滅多に無い。亜耶の母の事は嫌って居たが、時記の母の事は気に入って居たのだろうか。形代を残す程、愛したのだろうか。其れとも純粋に、時記が母を慕って居たからか。
「綾が浄めれば大丈夫よ」
全ての疑問に蓋をして、亜耶は明るく応えた。