七十二、吾子
真耶佳は、訳も分からず水鏡の前に連れて来られた。月葉が、用件を何も言わないのだ。
「月葉、私には水鏡の向こうは、何も見えないのよ?」
「亜耶さまから、お話しが有ります。霊眼を開きますね」
言うが早いか月葉は真耶佳の額に触れ、真耶佳の世界が広がった。相も変わらず飛んで来る黒い針、確か巫王が大鏡を作ると意気込んで居たとか。
そして、水鏡の向こうには懐かしい妹姫の姿。以前に見た時より、腹ばかりが目立って細くなって居る。
「亜耶、体調は大丈夫なの?」
思わず挨拶より先に、そんな言葉が出て来た。亜耶は大丈夫、と笑って真耶佳と多分同じだわ、と言う。確かに真耶佳も、子が大きくなるに連れて食事の量は減っている。大王が呉れた熊の血凝が有るから良い様な物の、また体は細くなって居た。
「同母の姉妹よね、子を孕んで同じ体調になるなんて」
言われて真耶佳は、確かに、と思う。孕んだ時期も同じだから、尚の事重なった部分が目立つのだろう。
「亜耶、今日はどうしたの?」
こんな話をする為に、自分を呼んだ訳では無いだろう。真耶佳は急に霊眼を開かれて、少し戸惑って居た。
「今朝方、大王とお話ししたのだけれど…」
亜耶が言い出すと、真耶佳は真顔になって聞き入った。大王が水鏡を使える等と、真耶佳も知らなかったからだ。
「子を得て護る為に、真耶佳の霊眼も開いた方が良い、と大王は仰有ったわ」
ただ、亜耶は真耶佳が心配で、即答は出来なかったらしい。真耶佳は幼い頃は物音にすら怯え、母に黙って亜耶の間で共に眠る事も有ったからだ。
其れが、形と成って顕れる他人の悪意に耐えられるか、と。亜耶は、真耶佳の意思を聞く事を望んだ。
「亜耶、私も幼い頃とは違うわ。今は吾子を守れない事の方が怖いの」
真耶佳は、切に訴えた。真耶佳の子には、杜の護りは無い。せめて、自分が守ると。
「…分かったわ。では霊眼は、其の侭にしましょう」
真耶佳の変化に、亜耶は驚いた様だった。真耶佳の幸せは、今、纏向に在る。其れを突き付けられた形だ。
ちゃんと大王にも伝えてね。そう言って亜耶は、真耶佳に無理矢理笑う。
「亜耶、私は勿論杜に帰るわ。誓った事だもの」
「生まれてきた子を、手放せる?」
「ええ、其の時が来たら」
其れは、親の道。必ず遣って来る、我が子との別れ。其れが二度と会えない物だと云うだけだ。
「覚悟して居た事よ」
「真耶佳、強くなったわね…」
「亜耶こそ、次の長として相応しい巫女姫にどんどんなって行くわ」
其れに此れからは、私達の会話も自由ね。真耶佳は何より其れが嬉しいらしく、無邪気に笑う。亜耶も其れにつられて、無理にでは無く笑って居た。
夕刻になり、時記が乳母の間から出て来た。真耶佳の顔を見た途端、霊眼を開いたんだね、と言う。
「よく、亜耶が許したね」
「吾子は、自分で守らなければならないのですもの」
真耶佳の眼差しには、杜を出た時の頼りない、美しいだけの姫の面影はもう殆ど無い。
「無理はしないで。澪や私も、手助けくらいは出来る」
勿論、頼りにして居るわ。真耶佳はそう応えて、飛んで来た黒い針を一本手で弾き飛ばした。
「所で兄様、澪はどうしたの?」
「ああ、もう少し寝かせて遣りたいんだ」
「では夕餉が来るまでは、疲れを癒やして貰いましょう」
真耶佳が慈しみに満ちた表情で言うので、時記も少し安堵する。愛されるばかりだった妹姫にも、愛する者を守ろうと云う気概が湧いた。其れは後で、澪と喜ぶ事にしよう。時記は一つ出来た楽しみを胸に、普段通り大王を迎える準備をした。