後編
震え上がる私をよそに、社長の『優しさ』は始業後も続く。
「どうぞ、春野さん。乗ってくれ」
得意先へ向かおうと車に乗り込む際、私の為にドアを開けてくれた。
もちろんそれは秘書に対してすることじゃない。私は堪らず遠慮した。
「社長、そこまでしていただかなくても……」
「優しくして欲しいんだろ、このくらいするよ」
助手席のドアを開けたまま、社長は優しく口元をほころばせた。
この微笑がまた末恐ろしかった。もちろん素敵だけど、それが自分に向けられていることを、まだ現実として受け入れられない。
「ほら、乗って。出発が遅くなる」
急かすにしてもあくまで柔らかい物言いをする社長に、私はまごつきながらも従う。
助手席に腰を下ろすと、社長はやはり静かにドアを閉めた。
続いて運転席に乗り込んだ社長は、シートベルトを締めながらおかしそうに笑った。
「言われた通りにしてるのに、あまり嬉しそうじゃないな」
微笑みかけられるのもないことだけど、こうやって声を立てて笑う社長も実にレアだ。どこか楽しげな横顔が年齢上に若く見えて、どきっとする。
――そうじゃなくて。
「す、すみません。嬉しくないわけではないんです」
本音を言えばもはや嬉しいという次元じゃなくて、どうしていいのかわからないくらいだった。叱られなくて済むのは確かにありがたいけど、ここまでしてもらわなくても。
「今更ですが、無理を言ってすみませんでした」
走り出した車内で私が詫びると、ハンドルを握る社長がまた笑った。
「無理はしてない。むしろ意外と楽しめてる」
「楽しい……ですか?」
「最近、こんな気分で仕事に臨むことはなかったからな」
そう言う社長は今、どんな気分でいるんだろう。横顔は少なくとも笑んでいるけど、見慣れないその表情の裏側までは見通せない。
言葉通りだと思っていいんだろうか。
内心、はらわたが煮えくり返ってたりしないかな。
「……そうだ。今のうちに例のファイルを確認してくれないか」
戦々恐々とする私をよそに、社長が穏やかに切り出してきた。
そういえば『どうしても見てもらいたかった』と言っていた。きっとそれほどに思い入れのあるデザインなんだろう。
「では、拝見いたします」
私はタブレットで受け取っていたファイルを開き、社長がデザインした図案を見た。
柔らかく優しい鴇色の生地に、腰高文様で女郎花が広がる柄行きだった。
女郎花は金彩加工にするとのことで、図案でも金色で描かれている。実物はとても小さく素朴な花の集まりだけど、こうして金で描かれるとブーケのように華やかだ。地の鴇色も女郎花と一緒だと若々しい色味に見えて、全体的に可愛らしいデザインだと思う。
社長がデザインされたものだと思うと、その可愛さが何だか意外だった。
「素敵な柄行きですね」
タブレットから面を上げて告げると、社長が満足そうな顔をする。
「今回は若い婦人向けを意識した。気に入ってもらえたら嬉しいな」
「とても可愛いです。女郎花がこんなに華やかだなんて……」
女郎花は秋の花として桔梗や萩と一緒に描かれることが多い。でも他の花を添えなくても、女郎花だけでも美しいこの図案は素敵だと思う。
「実を言えば、春野さんをイメージして描いたんだ」
社長の口から、またしても思いがけない言葉が告げられた。
「え……ほ、本当、ですか?」
私は思わず聞き返す。
これも誕生日のリップサービスだろうか。そう考えたくなるくらいには、心が揺れ動く発言だった。
運転席の社長が頷く。
「俺にとって一番身近な若い婦人と言えば、君だからな」
あ、そういう意味でしたか……。
迂闊にも舞い上がりかけた心を引き戻し、私は頬に手を当てた。自分でわかるくらい熱くなっていて、それを覆い隠す必要もあった。
その上で改めて先の発言を振り返る。
見た目だけなら非の打ちどころがない社長が、身近な若い女性といって真っ先に思い浮かべるのが秘書、というのはちょっとおかしい。社長ならそういうご縁にも事欠かないはずだ――普段はともかく、今の社長なら。
それで私はつい笑ってしまい、社長が怪訝そうにする。
「どうして笑う? 変なことでも言ったか?」
「いえ、すみません。ちょっとだけ」
慌てて口元を引き締めつつ、だけど社長がとても気にしている様子だったので、正直に答えた。
「社長は素敵な方ですのに、身近な若い女性で挙がるのが私なんて、もったいないですよ」
すると社長は困惑したようだ。眉根を寄せるのが横顔でもわかった。
「そうかな。身近なのは事実だろ」
「そうですけど、私をイメージしてこれを描いてくださるなんて……」
鴇色の地に咲く女郎花は可愛すぎて、社長が私のイメージで描いたのだとしたらやっぱりおかしい。普段はあんなにすげなく接してくるのに、一体どんな印象を持たれているんだろう。
「もしかしたら、家で描いたからかもしれないな」
釈然としない様子ながらも、社長が言った。
「会社にいる時は余裕がないから、家に帰ってからあれこれ考える。そういう時に思い浮かぶのが――」
そこでなぜか、気まずげに口を噤む。
そして横目で私を窺うと、今度はその顔に苦笑が浮かんだ。
「……にしても、仕事以外で君の笑顔を見たのは久し振りだな」
奇しくもその呟きは、私が朝に思ったのと同じだった。
余裕がないとも言っていた。やっぱりそうなんだ、当たり前か。まだ就任三ヶ月なんだから。
「よし、今日はもっと君に優しくしよう」
社長は決意を固めたようだ。
自分で言い出したことながら私は戸惑い、こう答えるのがやっとだった。
「あの、お気持ちだけで十分ですから……」
それをどう受け取られたか、社長の優しさは留まるところを知らなかった。
車の乗り降りでは必ずドアを開けてくれたし、一緒に歩く時は車道側に立ち、私にペースを合わせてくれた。常に笑顔で優しい言葉をかけてくれたし、ランチには私の好きなパンケーキのお店に連れていってくれた。
何より一番衝撃だったのは、そういうサービスの数々を次第に嬉しく思い始めた私自身だ。
社長と一緒にランチなんて、いつもなら気苦労以外の何物でもないのに――社長が笑っていたからだろうか。私も正直、楽しかった。
得意先回りを終え、帰社した私が給湯室に入ると、後を追うように槇さんが駆け込んできた。
そして血相を変えて尋ねる。
「社長どうしたの、頭打ったの!?」
槇さんは私の為に車のドアを開ける社長を見かけ、それはそれは動転したそうだ。
私も正直には答えづらく、おおよそのところだけを告げる。
「勤務態度について、ちょっとお話をさせていただいたんです」
「それだけであんなになる? 人が変わったみたいじゃない」
槇さんも私と同様、社長の変化が信じられない様子だった。
だけど私は、少なくとも今朝ほどは信じがたい気分じゃない。
「社長もずっと、余裕がなかったみたいなんです」
やっぱり庇ってしまうのは、私が秘書だからだろうか。
「まだ三ヶ月目ですから、今が一番大変な時期なんじゃないかって……」
先代が立派な方だったからこそ、社長にかかる重圧は並大抵のものではなかったはずだ。思えば私たちだって、社長を先代と比べてばかりだったような気がする。そういう空気を社長自身も察していたのかもしれない。
「かもしれないけど……」
槇さんは納得いかない様子で肩を竦める。
でもその後で、思い出したように続けた。
「思えば、専務時代の社長ってそこまで冷たい印象なかったよね」
その通りだった。
一緒にお仕事をする機会はそう多くはなかったけど、専務だった頃の社長はもう少し柔らかい人だった。先代にとっては自慢の甥だったみたいで、その優秀さを私に向かって誇らしげに語る先代の横で、少し居心地悪そうにしていたのを覚えている。
『叔父さんは買い被りすぎです。まだまだ何一つ及びませんよ』
そんなふうに言っていたことも。
誰よりも先代を意識して、かくありたいと思っているのは社長自身だ。きっと。
「……私、もうしばらく社長を見守りたいって思うんです」
だからそう告げてみたら、槇さんは目を丸くしていた。
「そりゃ、今日みたいな感じでいてくれるなら構わないけど……」
私としては今日ほど至れり尽くせりじゃなくてもいい。
ただお互いに、大変な時期こそ気遣える間柄でありたいと思った。
「あとで改めてお話ししてみます。今日ほどじゃなくても、優しくしてもらえたらって」
私の言葉に、槇さんは訳がわからない様子で目を瞬かせる。
「春野さんの『お話』って一体どんなの?」
「いえ、別に普通のお話ですよ」
「実は催眠術で社長を操ったりとかしてない?」
そんなこと、できるわけがないです。
操ったわけじゃなくて、社長自身の意思でああなったからこそ意味がある。
結局、今日は終業まで優しい社長のままだった。
私の仕事も大いに捗り、ミス一つなく一日を終えた。
そして迎えた終業後、私は『お話』をしようと社長室に入り、身構えた。
今日一日優しくしていただいたお礼を言おうか、それとも大変な時期にわがままを言ったことへのお詫びから始めようか。考えている間に、いち早く社長が口を開いた。
「春野さん、これなんだけど」
席を立った社長が、不意に何かを差し出してきた。
何だろうと見上げる私に、社長は言いにくそうにしてみせる。
「誕生日プレゼントにするつもりはなかった。でも今日用意ができたから、よかったら受け取って欲しい」
それは見覚えのある生地で作られた、ころんと丸い巾着だった。
綸子の生地は柔らかい鴇色で、金彩の女郎花がブーケのように描かれている。今日見せてもらったばかりの、社長がデザインした図案だ。
「もう、できあがっていたんですね」
驚く私に、社長は微かにはにかんでみせる。
「君に早く見せたくて、反物から作ってみた」
「では、これは社長の手作りですか?」
「ああ。気軽に使ってくれると嬉しい」
社長はそう言うけど、気軽になんてもったいなくて使えない。
手触りのいい、絹の柔らかい巾着に、あの美しい文様が描かれている。社長は私をイメージしたと言っていたけど、それこそ買い被りすぎじゃないかって思うほどだ。
これは今日一日で用意したものではないんだろう。
もっと前から、私の為に作ってくれたもの、みたいだ。
「ありがとうございます、社長。大切に使わせていただきます」
私は社長にお礼を告げた後、改めて頭を下げた。
「それと今日一日のお心遣いもありがとうございました。お忙しい時期にわがままを申し上げて、すみません」
「わがままなんて思ってない」
社長は真面目な顔でかぶりを振る。
それから困ったように苦笑して、
「むしろ、大切なことに気づかせてもらった。こちらこそありがとう」
というから、こちらが恐縮してしまった。
「いえ、そんな……お礼を言っていただく必要なんてないです」
「あるよ」
社長はもう一度、首を横に振った。
くっきりした二重の瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
「優しくすると君が笑ってくれる。そんな簡単な理屈さえ、ずっと忘れていた」
それだけこの三ヶ月が社長にとって慌ただしく、余裕のない日々だったということだろう。
「必死になったところで、一朝一夕で叔父のようになれるわけじゃないのにな」
社長は溜息をつき、更に続けた。
「今まで冷たく当たって、済まなかった」
そんな言葉を、社長の口から聞ける日が来るとは思ってもみなかった。
私自身も気づいていなかったことだ。思えばずっと、社長の前では笑っていなかった。
「君が笑ってくれた方が、気分もいいし仕事が楽しい」
そう言って、社長は笑う。
とびきり優しく、心のこもった素敵な笑顔だった。
「だから明日からも、できる限り君に優しくしたいと思ってる」
正直に言えば、今日ほどじゃなくてもいい。
今日の社長は優しすぎるくらいで、慣れない身ではどぎまぎさせられるばかりだ。だから気が向いた時、ほんの少し気遣ってくれるだけでいい。
「私も、これからも社長をお支えしたいと思っています」
そういうふうに、私は応じた。
「ですから時々……お気持ちが落ち着いている時だけで構いません。余裕があれば、優しくしてください」
それだって秘書が社長にするには出すぎたお願いかもしれない。
だけど傍にいるだけでは気づけないことがある。今日一日で私も、社長も、そのことを学んだ。
「なら、余裕を作れるように努めるよ」
社長は意を決したように言った。
「優しくする。これからも」
明日以降のことはわからないし、お互いの言葉がどれほど実現可能かも不透明だけど、私たちはきっと変われるだろう。一朝一夕ではなくても、いつかは理想に手が届き、先代のようになれるかもしれない。
今日は、幸せな誕生日だった。
私はいただいたばかりの巾着を改めて眺める。鴇色の生地に金の女郎花。これが私のイメージなんて、やっぱりちょっと恥ずかしい。
でも、嬉しいかな。普段は地味なこの花を、こんなにきれいに描いてくれたんだから。
「社長のお蔭で、素敵な誕生日になりました」
私の言葉に、社長は少しそわそわしたようだ。一度目を泳がせた後、こちらに向き直って言った。
「春野さん、今日はもう終わり?」
「はい。残業がなければですけど」
「残業はないけど、予定がないならこの後、夕食も一緒にどうかな」
それから社長は苦笑気味に言い添える。
「上司と食事に行くのが嫌じゃなければ、だけど」
いつもなら社長と一緒の食事は気苦労しかない。
でも、今日は違う気がする。これまでとは比べものにならないほど、楽しい時間が過ごせるはずだ。
だから私は頷いた。
「嫌じゃないです。是非、ご一緒させてください」
すると社長はほっとしたのか、口元をほころばせてみせる。
「ありがとう。今夜はうんと優しくするよ」
どきっとしたのは、その素敵な微笑のせいだろうか。
それとも、意味深に聞こえた今の言葉のせいだろうか。
「……どうかしたのか?」
私が固まったのを見て、社長が怪訝そうにする。
「い、いえ。ちょっと意味深だなって思っただけで……」
「何が?」
「な、何でもないです! 独り言です、ただの」
「そうか。……そういう意味で言ったからな」
「社長、何か言いました?」
「何でもない。独り言だ」
社長が笑っている。言った通りに、うんと優しく。