第一話 病室
――2023年、4月。
長く、ひどく冷たかった冬が終わりを告げ、世界が柔らかな春の陽光に包まれ始めた頃。
夢見ヶ原市の中心部から少しだけ離れた、小高い丘の上に建つ総合病院。
その最上階に近い、静まり返った個室のベッドの上に、一人の青年が横たわっていた。
白石柊生。
彼の肌は、シーツと見紛うほどに透き通るように白く、かつて健康だった頃の面影を残す端正な顔立ちは、病魔によって痛々しいほどに痩せ細ってしまっていた。
一定の電子音だけを無機質に刻み続けるモニター。点滴のチューブが繋がれた細い腕。柊生は少しだけ上体を起こし、力のない虚ろな瞳でただじっと『窓の外』の景色を見つめていた。
敷地内に植えられた桜の木々が満開を迎え、薄紅色の花びらが春の風に乗って舞い踊っている。近くにある公園では、新しい季節の訪れを喜ぶように親子連れがレジャーシートを広げ、無邪気にはしゃぐ子供たちの笑い声が、微かにガラス越しに響いてくる。
コンコン、と。
静まり返った病室の扉をノックする控えめな音が、柊生の意識を窓の外から引き戻した。
「お兄ちゃん、調子はどう?」
病室に入ってきたのは、一人の少女だった。
色白で少し儚げな印象を与えるが、その瞳にはどこか芯の強さを感じさせる、柊生にとって世界でただ一人の愛する妹――白石結衣だった。
つい先月まで、見慣れた高校の制服姿でお見舞いに来ていた彼女だが、今日の装いは少し大人びた、春らしい淡い色合いの私服だった。
「……結衣も、もう高校卒業だもんな。私服姿を見るの、割と久しぶりな気がするよ。大きくなったな」
ベッドの脇のパイプ椅子に腰を下ろす妹を見て、柊生は目を細めて優しく微笑んだ。
「やめてよ。子供扱いしないで」
結衣は少しだけ頬を赤く染め、照れ隠しのように小さく唇を尖らせた。
「まあ、おしゃれは好きだし……これからもっと、色んな服でここに来ようかな」
明るく振る舞う結衣の言葉。
それは、「これからもずっとお見舞いに来る」という、彼女なりの切実な祈りでもあった。
「……そうだな。楽しみだ」
柊生は小さく頷いた。
だが、その口元に浮かんだ微笑みは、どこか焦点の合っていない、虚ろで空っぽな表情だった。
「頻繁にここに来てくれるのは兄貴としては嬉しいが……確か、大学に合わせて隣町で一人暮らしをしてるんだろ? しっかり学業に励んで、友人と仲良くするんだぞ」
「……それ、言うの何度目?」
結衣が呆れたようにため息をつく。
「この前も、さらにその前も、ずーっと同じこと言ってたよ。まるで、遠いおじいちゃんのお小言みたい」
「仕方ないだろ。心配なんだよ、俺の大切な妹なんだから」
柊生が苦笑交じりに言うと、結衣も釣られて小さく笑った。
だが、その穏やかな笑い声はすぐに途切れ、病室は再び、重く冷たい静寂に包まれてしまった。
「……こう何年もここにいると、この部屋の静けさが好きになってきてな」
柊生は、点滴の繋がれた白い腕をゆっくりと持ち上げ、窓から差し込む春の光に透かすようにして見つめた。
「こうして目を瞑ると、落ち着くんだ。外の世界の喧騒から切り離されて、ただ時間だけがゆっくりと流れていく。……俺には、これくらいが丁度いいのかもしれない」
「……っ」
柊生のその顔を見た瞬間。
結衣の表情から、作っていた明るい笑顔が完全に剥がれ落ち、ひどく悲痛で、泣き出しそうな顔へと歪んだ。
「そんなこと、言わないでよ……」
結衣は膝の上で両手を強く握りしめ、震える声で呟いた。
「お兄ちゃんは、ここから出るんでしょ? また一緒に家に帰って、くだらないことで笑い合って……私が一人暮らしで困ってたら、文句を言いながら助けに来てくれるんでしょ……?」
すがるような妹の言葉に、柊生は目を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。
「結衣。……お父さんと、お母さんを頼む」
「え……」
「あの二人は、昔から俺たちに対して過保護だったからな。俺がこの病院に入ってから、ずっと無理をして気を張り詰めているのが分かる。……だから、俺がいなくなったら、お前がしっかりと支えてあげてくれ」
「お兄、ちゃん……何、言ってるの……?」
結衣の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち始めた。
「後……もう、延命治療はいいんだ」
「……え?」
「……両親にこれを言っても、絶対に納得しないだろう」
柊生はゆっくりと目を開き、涙で顔をぐしゃぐしゃにした妹を真っ直ぐに見つめた。
「だから……お前にしか、頼れないんだ。すまない」
結衣が絶句し、息を詰まらせた、まさにその直後だった。
「――っ、ゲホッ! ゴホッ、ゴハッ……!」
突如として、柊生の身体が激しい痙攣に見舞われ、喉の奥から引き裂かれるような酷い咳が噴き出した。
「お兄ちゃん!?」
結衣が弾かれたようにパイプ椅子から立ち上がり、ベッドの上の兄に駆け寄る。
柊生は身をよじりながら口元を手で押さえたが、その指の隙間から、どす黒い『血』がボタボタとシーツの上へと吐き出された。
真っ白だったシーツが、瞬く間に鮮血の赤に染まっていく。
「……お兄ちゃん、お兄ちゃんッ!!」
パニックに陥り、泣き叫ぶ結衣。
しかし、柊生は咳き込みながらも、血に染まった手を力なく振って、ひどく冷静な声で言った。
「……大丈夫、いつもの事だよ」
その言葉が、結衣の心臓を最も冷酷にえぐり取った。
柊生は口元をティッシュで乱暴に拭うと、荒い呼吸を整えながら、血走った目で窓の外の空を見上げた。
昼間の青空の向こう側に、彼だけに見える景色があるかのように。
「……結衣。この病院から見る夜空は、とても綺麗でね」
唐突に、柊生がひどく穏やかな、透き通るような声で語り始めた。
「都心部から少し離れた小高い丘の上にあるからか、夜になると、星がとてもよく見えるんだ」
「お兄ちゃん、喋らないで……! お願いだから……!」
「星が、どうしてあんなに光って見えるか……その理由は、知っているだろ?」
涙で顔を濡らす結衣の制止をよそに、柊生は窓の外を見つめたまま、静かに言葉を紡ぐ。
「あれは、自らの身を削り、燃やし続けているからこそ、暗闇の中で輝いて見えるんだ」
柊生はゆっくりと首を巡らせ、結衣の震える手を、冷え切った自身の両手で優しく包み込んだ。
「……俺が居なくなったら……きっと、俺もあの星々の一部になれる。……誰よりも燃え盛るような、一番光る星となって。……きっと、お前をずっと空から見守るんだ」
「やだ……やだっ!」
結衣は子供のように首を横に振り、大声で泣きじゃくりながら、震える手でベッドの脇にあるナースコールのボタンを何度も、何度も狂ったように押し続けた。
けたたましい電子音が、静まり返っていた病室に虚しく響き渡る。
すべてが限界を迎え、白石柊生という一人の青年の命は、確実に終わりの時を迎えようとしていた。
誰もが、そう信じて疑わなかった。
――だが。
その数ヶ月後。
白石柊生は、現代の医学では到底説明のつかない『奇跡的な回復』を見せ、自らの足で歩いてその病室から退院を果たした。
全身の臓器を蝕んでいたはずの病魔が、嘘のように綺麗に消え去っていたのだ。
そして。
柊生が無事に退院して、実家へと戻ってきたその数日後。結衣がその事を知り、実家に戻った際に、両親が仕事の都合という理由で、家を去った事を柊生から聞くこととなる。




