第6章 ips細胞 ①
大屋根リングから階段を降りると、会場の喧騒がゆっくりと戻ってきた。
さっきまでの静かな景色が嘘みたいに、人の声と足音が広がっている。
「……さっきの景色、忘れられないです。海も綺麗だったけど、それだけじゃなくて……胸がスッとする感じがしました」
「うん。いい場所だったな」
「またいつか……行けたらいいですね」
未来の言葉は、願うようでもあり、祈るようでもあった。
その声にどう返せばいいかわからなくて、俺はただ頷く。
歩きながら、未来が突然立ち止まる。
「空野さん、ちょっと手、出してください」
「手?」
「はい」
言われるまま手を出すと、未来はそっと何かを置いた。
「ストロープワッフル、最後のひとかけらです。
せっかくだから……一緒に食べたかったんです」
掌には本当に小さな一片。
でも未来は満足そうに目を細めている。
「じゃあ……せーの、で食べませんか? 最後だから」
「……わかった」
未来は自分のひとかけらを指先でつまむ。
「せーのっ」
二人同時に口へ運ぶ。
甘さが広がり、カリッと小さな音がした。
それだけで、胸の奥にじんわり温かさが染みた。
「おいしい……最後までちゃんと美味しいですね」
「だな」
「……なんか、今日ってすごいですね」
「すごい?」
「だって、ただ食べてただけなのに、ずっと嬉しいんです。誰かと“同じ味で幸せになる”って、あんなに楽しいんだって初めて知りました」
未来はほんのり笑って、視線をまっすぐ前へ向けた。
その横顔を見ていると、胸のあたりがふっと熱くなる。
「私、今日、忘れたくないです。思い出そうとしなくても思い出せるくらい……ちゃんと大事にしたい」
「……大事にできるよ。新垣さんなら」
口にした瞬間、未来は驚いたように目を見開き、それから静かに笑う。
「……ありがとうございます」
その笑顔を見て、無意識に歩幅が未来の歩幅と合っていた。
まるで自然と並んで歩くように。
しばらく歩くとパビリオンが視界に入り、未来の足がぴたりと止まる。
「……もうすぐですね」
「うん」
未来は深呼吸をして、小さく拳を握る。
「怖いけど……行きたい。ちゃんと知りたい。期待してる自分ごと、ちゃんと受け止めたいです」
それは、涙でも諦めでも弱さでもなく……覚悟だった。
「無理だと思ったら言えよ」
「言います。そしたらその時は……逃げる理由、ください」
「任せろ」
未来は少し笑う。
だけど歩き出すその一歩は、ほんのわずか震えていた。
人混みを避けながら歩くうち、未来がふいに袖をつまむ。
「……離れないでくださいね」
その声は頼るよりも、願うような響きだった。
その一言で胸の奥が大きく揺れる。
「ああ。離れないよ」
そう答えながら……心のどこかがひどく痛む。
未来の“支え”になってはいけない。
期待させてしまえば、未来はきっと傷つく。
それなのに、手を振りほどくことなんてできるはずがなかった。
パビリオンの入り口が目の前に近づく。
電子チケット(プリントアウトした)のQR表示を開く未来の指先は、微かに震えている。
折りたたまれたチケットの裏には、オランダ館のすぐ下の行に、もう一つパビリオン・イベントの予約が印字されていた。
未来はその文字を見て唇を結ぶ。
「……行きましょう」
小さな声。けれど確かな声。
未来は覚悟を抱えて一歩を踏み出した。
俺も未来のすぐ横で歩き出す。
“隣にいる”と約束してしまった以上、揺らがない態度でいなければならない。
けれど胸の奥では、遠くから冷たい波が押し寄せ始めていた。
……この距離のままでは、きっとどこかで破綻する。
近くなるほど、離れなきゃいけなくなる。
そんな矛盾が、歩くたびに静かに積み上がっていく。
パビリオンの扉が、ゆっくりと開いた。




