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『ハーリングの塩味を、君と』〜あの日、夢洲の空の下で〜  作者: talina
第5章

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未来の約束 ④

 階段を上りきった瞬間、視界がふわっと開けた。


 大屋根リングの上は、海と空の境目がどこか曖昧になるほど眩しくて、景色全体が光をまとっているように見えた。

「……わぁ……」

 未来は小さく息を漏らした。

 その声は驚きと嬉しさが混じっていて、まるで子どもみたいに素直だった。

 未来は手すりに駆け寄ると、海を見下ろしながら嬉しそうに目を輝かせた。

「すごい……! ほんとに広いんですね。なんだか、屋根じゃなくて、空の上に立ってるみたいです」

「だな。たしかに“展望台”ってより“空”って感じだ」

「えへへ、空野さんの名前みたい」

「……偶然だろ」

 照れくさくてつぶやくと、未来はくすっと笑った。

 そんな風に笑う声を聞いているだけで、海の風よりずっと心地よかった。

「……じゃあ、付けますね」

 未来は袋から取り出したピンパッジを服に付けた。

「今日、一番嬉しかったのは……一緒にご飯を食べた時間です」

「ハーリング、半分こしてかじりあって……同じ味を一緒に驚けたの、すごく嬉しかったから」

 未来は胸元にピンバッジを留めながら言った。

 その頬は風でだけじゃなく、少し赤くなっている。

「……新垣さん」

 名前を呼ぶと、未来は目を瞬かせた。

 その表情を見たら、何か返さなきゃいけない気がして……。

「俺も……楽しかったよ」

 それしか言葉が出なかった。

 未来の目が、ぱっと嬉しそうに緩む。

「ほんと、ですか?」

「ああ」

「よかったぁ……」

 未来はほっと肩を落とし、胸の前で両手をぎゅっと握った。

 その柔らかい表情を見ていると、もっと何か言いたくなる。でも言葉が浮かばない。

 そんな沈黙を破ったのは、未来の急な声だった。

「……あ」

 未来はふいに動きを止め、視線を一点に固定した。

 大屋根リングの縁を見下ろすような角度。

 そこには、屋根に立つ有名キャラクターの巨大オブジェ。

 遠く淡路島の方向を指差している。

 未来はそのパビリオンを見つめたまま、まったく動かない。

「……どうした?」

 返事はない。

 息をしているのか不安になるほど、未来はじっと固まっていた。

「新垣さん?」

 呼びかけると、ようやく瞬きをして、笑顔……の形だけを作った。

「……ごめんなさい。ちょっと、ぼーっとしちゃいました」

 声が小さすぎた。

 さっきまでの弾むような声じゃない。

「疲れましたか?」

「いえ……違うんです。ただ……」

 未来は言いかけて口をつぐむ。

 胸元のピンバッジにそっと触れ、目を伏せた。

「行きたい場所があるんです。でも……怖いんです。

 行けば、期待外れで……治らないって、わかってしまうかもしれないから」

 その言葉は、海風よりずっと弱く震えていた。

 未来の病気のこと。

 iPS細胞の心筋シートの展示を見たいという希望のこと。

 だけど、こんなふうに“怖い”と口にした未来を見るのは初めてだった。

「……無理に行かなくてもいいんだよ」

 気休めでも偽善でも、その言葉しか出なかった。

 未来は首を横に振った。

「行きたいんです。ちゃんと知りたいんです。でも……期待して、期待した分だけ苦しむのが怖いんです」

 風が二人の間をすり抜けていく。

 笑顔ばかり見てきたせいか、その震えが痛かった。

 思わず手を伸ばしかけて……

 寸前で止めた。

 大切にしてしまったら、勘違いさせてしまう。

 特別な距離になってしまう。

 あとで未来が傷つく要因になるのは、避けなきゃいけない。

 頭ではそう理解していた。

 でも、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

「……行こう」

 自分でも不思議なくらい静かな声が出た。

「新垣さんが怖いなら、俺が隣にいる。知るためでも、逃げるためでも、立ち止まるためでもいい。選ぶのは新垣さんだ。俺は、その横にいるだけだよ」

 未来は大きく見開いた瞳でこちらを見つめた。

 涙にはなっていない。だけど……揺れている。

「空野さんは……ずるいです」

「え?」

「そんな言い方されたら……一緒に行きたくなるじゃないですか」

 笑っているのに、今にも泣きそうな声だった。

「……ありがとう。ほんとに、ありがとう」

 未来は小さく頭を下げた。

 その仕草が胸に刺さった。

 守りたいと思ってしまうほどに。

 ……でも、それは今だけだ。

 未来の病気のことや期待や希望を背負う役になってはいけない。

 感情で距離を詰めてしまったら、未来のためにならない。

 わかっているのに。

「行きましょう。……大切な場所へ」

 未来が顔を上げる。

 そこには、涙でも絶望でもない、意志のある表情があった。

 風が吹き、未来の胸元のピンパッジがかすかに揺れる。

 その先へ進むための階段はすぐ目の前にあるのに、

 俺の心だけが少し、後ろに引っ張られていた。

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