パパは勇者
ティグリスが異変に気付いたのは、歩き出してから一時間と経たぬ頃だった。
ティグリスの厚意に甘え、彼の背中で体力の回復に努めていたリラに、おい、と声をかけてきた。
「赤ん坊。なんか様子がおかしいぞ」
降ろしてもらって、ミハイルの様子を見る。
ティグリスの言う通り、ミハイルはぐったりとした様子で……急速に弱っていっていることが、一目でわかった。
「あー、魔界の空気にやられてんだな、こりゃ。魔界は魔力が濃いから、普通の人間にとっちゃ結構きついらしいんだよ。生まれたばかりの赤ん坊なんて、ひとたまりもないだろうな」
「そんな」
ティグリスの説明を聞き、リラは青ざめる。
どうしたら、とオロオロしていたら、ティグリスが指差してきた。
「その首についてるもん、こいつにやればいいじゃねえか。自分だけしっかり対策しやがって」
「首……?そっか。ばあちゃんがくれた首飾り……!」
ティグリスが何を差しているのか理解して、リラは急いで自分の首から首飾りを外した。
ジャナフの生母――マルハマの巫女の霊力が込められた形見の首飾り。リラの魔力を抑えこむ力があり、魔除けにも等しい効果を持つ。
ミハイルに掛けてやれば、ミハイルを包む空気が一気に浄化されるのが見えた。
清らかな力に守られ、ミハイルが小さく泣き声を上げる。その様子に、リラはほっと大きくため息をついて……ぎくりと、自分の身に起きた異変に背筋が凍った。
「……ん?おまえ、髪、白かったっけ?」
リラの異変は、すぐに容姿にも現れていた。
束ねられた真っ黒な髪の一部が、白くなっている。息をするたびに、頭がガンガン痛んで。首飾りを外した途端、リラは急激な変化に襲われた……。
「大丈夫だ……ごめん。ミハイル、また頼んでいいか?」
「別にいいけどよ。おまえ――」
「大丈夫。本当に……」
自分を心配してくれているティグリスの言葉を遮るように、リラは言った。
ミハイルを守るために使われた勇者の力。あれでリラもダメージを受けたところに、出産まで重なって。リラの身体はすでに限界だった。
回復するために、リラの本能が顔を出そうとしている――首飾りの霊力で抑え込んでいたから無事だったのに、それを外してしまったから。
……だからと言って、ミハイルから取り上げるという選択肢は存在しない。
「なんで遠慮してんだよ。俺様はおまえ抱えてたって余裕だぞ」
自分で歩こうとするリラに、ティグリスが不思議そうに声をかけてくる。
彼の気持ちは有難いのだが、いまはミハイルから距離を取っておきたい。万一の時……たぶん、ティグリスならリラと対等以上に渡り合えるし。
見通しの悪い林の中を進んで数十分。
それまで、リラたちの足音が聞こえるほど静かだった場所が、急に騒がしくなった。ガサガサと、不吉な騒音が聞こえ始めてきて。急速に、嫌な気配が近付いて来る……。
「走れ!あのブス、ここまで追いかけてきやがった!」
ティグリスの言葉に、ほとんど反射的にリラは走り出した。
何が起きたのか、考えるのは後にして――木々の隙間から、あの湖でもリラたちを襲った不気味な魔物が飛び出してくる。
「近くに沼があるのは知ってたが……あれも繋がっていやがったか」
ティグリスが舌打ちする。
魔物は、上半身は女だが、下半身は長い蛇の尾のようになっている。その大きさに似合わず意外とスピードはあって、器用に木々の合間を縫ってリラたちを追ってきた。
リラは立ち止まって振り返り、拳を握り締める――大きく口を開けて自分に飛び掛かってくる女を、容赦なくぶん殴った。
構わず走れ、とティグリスが怒鳴った。
「ここで争うと面倒なことになる!中途半端な攻撃しても、そいつは逃げるだけだし――」
鳥の鳴き声のようなものが林中に響き渡り、リラは耳が痛くなった。またガサガサと騒がしくなって、上空に、鳥の群れのようなものが……。
「魔界の渡り鳥だ!ちょうどいまがシーズンなんだよ――大して強くはねえが、数が多すぎる!」
ティグリスの警告はもっともだった。
魔鳥は何百羽と……数えることなど、不可能なほど。いちいち相手にしていたら、普段のリラでも体力が尽きてしまうレベルだ。
ティグリスの言う通り、走って逃げるしか……ないと分かっているけれど。
がくりと、リラは膝をつく。
やっぱり、自分はもう限界だ。
「おい!」
ティグリスが呼び掛けるが、リラは意識を保つのも精一杯で。迫ってくる鳥の群れを、ぼんやりと見ていることしかできない。
「――リラ!」
ザカートの声が、聞こえた気がした。
声が聞こえると同時に光の衝撃波が魔鳥の群れを吹き飛ばし、声も半分ぐらい吹き飛んでしまった。
顔を上げてみれば……ザカートが、こちらへ急いでやって来る。
聖剣を手に……ザカートも、ちょっとボロボロになっている。リラを追って魔界へ来て、探し回ってくれていたのだろうか……。
さすが勇者だ――いつだって、彼はちゃんと自分を助けに来てくれる。
ザカートの姿にリラはふっと笑い……意識を手離した。
「リラ!」
ぐらりと崩れ落ちる身体を捕え、しっかりと彼女を抱き寄せる。
……大丈夫だ、ちゃんとあたたかい。
気絶してしまっただけ。彼女はちゃんと生きている。
そのことを確認し、ザカートはほっとため息をついた。
「勇者!のほほんとしてんじゃねえ!走ってこい!」
どこかで聞いたことのあるような男の声。数十メートル先に、魔族らしき男がいる。
どうやら、自分に向かって呼びかけているようだ。
「さっさとしろ!あの群れは、おまえでも始末しきれねえよ!」
たぶんそうだろうとは思っていた。遠目からでも、異常なほどの数だった。
勇者の力をもってしても、あれを殲滅するのは容易なことではない。いまも、群れは自分たちを狙っている。
リラを抱きかかえ、ザカートは男を追いかけて走った。
「おまえ、穴から落ちてきたのか?」
「ああ。リラが穴に落ちたと聞いて、俺も……」
ためらいはなかった。当たり前のように穴に飛び込み、広い魔界を探し回った。
幸いにも、リラを追う手掛かりはあって――聖剣が、かつての自分の相棒のいる方向を指してくれた。
リラの髪飾りの一部となった、ザカートの相棒一号。
剣が共鳴し合い、おかげでザカートはリラを追うことができた。そうして林に入ってみたら、あの魔鳥の群れが。
「……もしかして……おまえ、赤ん坊を連れているのか?その子は……」
すぐには気付かなかったが、魔族の男の腕には、大きな上着に包まれた赤ん坊がいる。
ピンクダイヤモンドの付いた首飾りに守られていて……ちょっとだけ開いた瞳は紫色。でもその顔立ちは、アリデバラン人の……。
「そいつが生んだんだよ!詳しい話は後でしてやる――そうだ!おまえ、あとで俺様と再戦だからな!」
目を瞬かせ、ザカートは苦笑する。
そんなことのために、彼はリラと赤ん坊を守ってくれていたのか。たかだか勇者の自分と、戦いたいがために……。
「おまえの真っ直ぐな強さには、俺でも敵わないかもしれないな」
「おお?俺様の偉大さを、おまえも理解したか!」
彼は愉快そうに大笑いし……ちょっと意味が違うんだがな、とザカートはますます苦笑してしまった。
目が覚めた場所は、すっかり見慣れたアリデバランの自室。リラのために、ザカートがマルハマ風に設えてくれた部屋。
ぼんやりとした頭を動かせば、ザカートが自分を見つめている。
ザカートの顔に、リラは一気に覚醒した。
「ミハイル――!」
「息子のことか?あの子は無事だ。ほら……」
ベッドのすぐそばにベビーベッドも設置されており、ミハイルはそこですやすやと眠っている。
思わず跳び起きてしまったリラに、ザカートがそっとミハイルを手渡した。
小さな我が子を、リラはぎゅっと抱きしめる。
「よかった……ごめんな。オレが間抜けだったせいで、おまえを危ない目に遭わせちゃって……」
「おまえは何も悪くない。二人とも、無事で良かった――それに、俺たちの息子を守ってくれてありがとう、リラ」
ザカートが、子どもを抱くリラを抱きしめる。リラも手を伸ばし、ザカートのことを抱きしめ返した。
「ママ!」
「姫様!」
部屋に、ティカを連れたアマーナも入ってくる。娘のティカは手に花を持っていて……どうやら、リラのためにせっせと花を飾っていてくれていたらしい。
戻ってきた母親が目を覚ましていたので、驚きながら飛びついてきた。
「ティカ!アマーナも……心配かけちゃってごめん」
ぎゅうぎゅうと母親に抱きつくティカを、リラもしっかり抱きしめる。アマーナも涙ぐんでいた。
「お義姉様、目を覚まされたのですか――ああ、良かった……!ごめんなさい、私があんな場所へ連れて行ったばっかりに……!」
にぎやかな声を聞きつけ、ローザもやって来る。彼女も涙を流し、リラを見るなり平謝りだ。
おまえは何も悪くない、とザカートと同じセリフをリラは言った。
「おおっ。リラが目を覚ましたのか!よおし、これで問題は解決だな!」
続いて入ってきたのはティグリス……こいつもアリデバランについて来てたのか、とリラは目を瞬かせた。
「ザカート!リラが目を覚ましたのなら、憂いは消えただろ!いまこそ俺様と勝負だ!――だあああ!だから、懐くなアレルゲン!好きとか嫌いとかじゃなくてだな、ゴロゴロされると迷惑なんだよ!」
ティグリスの足元で、ブルーパンサーのアスールがゴロゴロと喉を鳴らして懐いている。
……なんだか、すっかり彼もこの城に溶け込んだらしい。アスールも親愛の情を示しているし、それを見守る周囲も、微笑ましそうにクスクス笑っている。
「ザカート……悪いんだけど、あいつと勝負してやってくれないか?オレ、約束しちゃったしさ」
「ああ、もちろんだ」
リラの頼みを、ザカートは笑顔で了承する。
「俺の大切な人たちを守ってくれた恩人だ。そんなことで恩返しになるなら、喜んで勝負するさ」
リラも笑顔で頷き……自分の腕に抱くミハイルに、視線を落とした。
「……大丈夫だ。父さんが絶対に勝つから」
ティグリスは悪人ではない。だから、本気の真剣勝負であっても、心配するようなことは何も起きないだろう。
そしてザカートは、本物の勇者――勇者が、負けるはずはないのだ。




