女城主
「奥方様、ご用意ができました」
父のパトリックが退いた後、執事長となったオスカルが、マウラの部屋へと来た。
「ありがとう、オスカル。すぐに行くわ」
鏡の前で、自分の姿を確かめた後、マウラは側にある小さな肖像画に視線を移した。
(姉さま、行ってくるわね)
父が爵位をマウラに譲り、マウラは女伯爵となった。
小さな領地とはいえ統治していくことは一筋縄ではいかなかった。父母は領地内の別荘にて暮らしているが、マウラは時折赴いては、父の助言を仰いだ。幼い頃より、姉と共に同じ教育を受けてはいたが、自分は次女なのだから、責任を伴うことや難しいことは全て優秀な姉がやってくれる、そう、いつも思っていた。
数歩後ろを歩くオスカルを見て、マウラは、
「わたしはお昼の後にはこちらへ戻って来るわ。いくつか目を通さないといけない書状があるでしょう?」
「はい。来週までにご返答せねばならない火急の儀がございます。最北の村の治水工事に関することです」
完璧に執務をこなすオスカルの存在はとても大きい。彼なしでは今の自分はない、と感謝している。彼は風貌も父パトリックに似てきたが、その仕事振りも見事なまでに父譲りだ。ただ、小言を言うのだけはマウラが成長してからも変わらない。
「わかったわ。多分、その村に出向かないといけないわよね」
「そうでございますね。百聞は一見に然りと申しますし、視察に赴きますと、村民も喜ぶかと」
「では、お前は日取りを考えていてちょうだい」
「御意」
「母さま、遅いわ、何をしてらしたの?」
八歳になった娘、ウーナが痺れを切らしたかのように、玄関で待っていた。
「フィンはもう父さまと一緒に行ってるのよ」
早く、早く、と、ウーナがマウラの手を引いた。侍女のカトリンが中食を詰めた籠を持って側についている。ウーナが生まれてから、この小さな姫つきの侍女となったのだ。
「はい、はい、そんなに引っ張らないでちょうだい、ウーナ」
三人が羊の放牧地へ到着すると、マウラの夫であるウィル、そして息子である、ウーナより二つ下のフィンが、気付いてこちらに手を振った。
ウィルは羊飼いなので、城の敷地内に新たに放牧地を増設したのだ。ウィルを婿として娶り十年が経った。マウラの見初めた男が平民、しかも羊飼いと聞かされた前伯爵である父は激昂した。前例があったので、マウラはもちろん反対されることを予測していたが、驚いたことに、父はしばらくすると二人の結婚を許した。後に母より聞かされたのは、
「もう二度と娘を失う悲劇を味わいたくない。好きにさせてやろう」
と、父が零したということ。結婚を許す代わりに、マウラが父の爵位を継承し、領地を治めていくこと、息子が生まれた際には、その息子が家名と爵位を継ぐことを条件に、二人は身分の差を越えて芽生えた愛を貫けることとなった。
子供たちが生まれると、父の態度は変わっていき、今では目に入れても痛くない程の溺愛振りを見せている。これも姉ミリアムが先に道を示してくれたおかげ、と、マウラは思う。同じく平民の男と恋に落ち、二人が一緒になることは許されず、絶望のまま十七歳という若さで先急いだ姉を想わない日はない。
「母さまー!」
フィンがマウラたちの元へ駆け寄って来た。
「お昼は持って来てくれたの?」
「はい、ここに」
マウラがカトリンの持つ籠を差した。
「木陰に用意しますか、奥方様?」
「そうね。お願いするわ、カトリン」
カトリンが木陰に毛氈を敷き、籠の中身を出していると、ウィルが追い付いた。
「やあ、レディたち、お昼を持って来てくれたんだね。ありがとう」
ウィルは妻の頬に口付けた。
「子羊たちの様子はどう?」
「うん、問題ないよ。みんな順調に育っている」
そう言ってウィルはにこやかに笑った。朴訥、しかし、心根が真っ直ぐで、マウラよりも年若なのに落ち着いている。慣れぬ貴族社会のしきたりに順応し、妻の身分に奢ることなく、手助けも自分が出来ることは全て行う上に、毎日の羊の世話も淡々とこなしている。自分には勿体ないくらいの夫だ、と、常々思っている。
子供の頃は、都にいるきらびやかな従兄に熱を上げていた自分が信じられない変わりようだ。その従兄のクリストルも父を継いで伯爵となり、妻帯し、子供も数人いて幸せな暮らしを送っているようだ。
(かつてはクリストルの花嫁になることを夢見ていたわたしなのに・・・)
毎日が穏やかに過ぎていく。子供たちは大病を患うことなく、すくすく育ち、夫との関係も波風が立つ時はあれど、その度に二人で乗り越えてきた。深い愛情を互いに感じる、そう、子供の頃から思っていた父母のような家庭を築くという自分の理想をそのまま生きている。
時折、一度だけ会った姉の想い人だった男のことを考える。姉の遺言通り、訃報を知らせに行ったのがマウラで、その時の彼の絶望感を思い返すだけで、いまだに胸が痛む。幸せであろうか、恙なく暮らしているだろうか。そうであればよい、と心から願っている。
(姉さま、わたし、毎日とても幸せです。愛する家族がいて、有するもの全て、当たり前ではなく、それが自分の手の中にあることは奇跡なのだということ、そして、それは全て神のご加護のおかげ。そう気付かせて下さったのは、姉さま、貴女ですわ)
そよそよとやわらかな風が吹き、頬を撫でていった。マウラは、美しかった姉の笑顔を思い浮かべた。




