第1話 『遣い』
低く遠く、音が聞こえた。
薄闇の中、イチは焼成された携帯食料を咥えたまま、顔を上げた。
眼下に広がる石造りの街。夜明けを間近にするその街の向こうには、果てのない砂の海が広がり、街との間を、巨大な壁が遮っている。やや高台となる場所にいたイチには、その向こうが見えた。
薄く明るくなり始める空の下、壁を越えたその更に先には、遠く霞むようにして、巨大な白い塔が高くそびえ立っていた。直径が数十キロはあると言われる、距離感がおかしくなりそうなほど巨大なそれは、通称『砂生みの鯨』と呼ばれている。塔の先は遙か天を突いて、先端は空の向こうに霞んで見えない。そしてその巨大な塔から、音は響いていた。
生き物のような、機械のような、弦楽器のような、笛のような。響いてはやみ、やんでは響くその音は、砂を渡る風に乗り、微かに、だが確実に聞こえてきていた。
急いで携帯食料を咀嚼し、古びた水筒の中身を呷る。それを背嚢の中に突っ込むと、背負うなり、それまでいた場所から飛び降りた。
およそ三階程度の高さのそれを難なく着地すると、砂の混じった石畳を、すぐさま走り出す。降りた先は、住居の並ぶ狭い町並みだった。沿岸部にかなり近いここは、外から流れ着いた者が多く住んでいる。本来なら住居は高台に構えるべきなのだが、この街はあまりに人の流入が多い為に土地が足りず、あとから来た者ほど、この辺りに住まざるを得なくなっていた。
時間帯のせいか、外を歩く人の姿はまばらだった。彼らは、壁の方角に向かって走る、闇に紛れるような色味の服を纏ったイチを、不思議そうに見つめていた。だが微かに響く音に気付くと、その表情に緊張を走らせ、一人また一人と、イチとは真逆の高台へ向かって走り出した。
やがて街のあちこちから警鐘が響きだし、家々から飛び出してきた人々が、次々に高台へと走っていく。その流れを逆流しながら、イチは徐々に下る道を壁へと向かった。
次第に家屋が途切れ、足下に混じる砂が増えていくと、壁がいよいよ目の前にまで迫ってきた。イチは地面を蹴りつけると、傍にあった家の屋根に飛び乗り、そのまま壁に向かって高く跳躍した。
およそ人のそれとは思えない脚力が、その体を壁の上まで運ぶ。さほど広くはない幅の歩廊に辿り着くと、一面に広がる砂の海と、その只中に屹立している『砂生みの鯨』がよく見えた。
目を凝らすと、『砂生みの鯨』のある方角から、いくつかの砂煙が起こっているのが見えた。それは徐々に大きくなり、こちらに近づいてきている。
少しずつ輪郭を露わにするそれは、巨大な魚に似た生き物だった。銀色の塊が五体、砂の上を滑るようにして突進してくる。イチは背嚢を落とすようにその場に置くと、首に巻いた布を引き上げて口元を覆い、その黒い瞳にゴーグルをつけた。
魚が更に近づく。イチは壁を蹴りつけると、砂の海に飛び出した。
体が大きく弧を描き、砂の上に着地する。だがその足は沈み込むことなく、まるでそこが固い地面であるかのように、滑らかに走り出した。恐ろしい速度で近づく銀の群れが、徐々に迫ってくる。更に走り、大きく飛び上がると、下ろされたイチの右の手のひらから、長大な刀の刃が生えた。
鍔のないそれを両手で握ると同時に振り上げると、目前まで近づいた先頭の一体めがけ、落下の速度を乗せて振り下ろした。骨ごと肉を断つ手応え。振り切ると、中から無色透明な体液が大量に噴き出した。
残り四体が壁に向かって突進していく。イチは惰性で前進する魚の背を蹴りつけると、追うように別の一体に迫り、簡素な機構の付いた左手を突き出した。手元のトリガーを引くと、腕につけた機構から、先端に鋭利な金具の付いたワイヤーが射出される。
金具が最も近い魚の背に刺さった。すぐさま引き寄せて距離を縮めると、制動をかけられ減速したその背を深く切り裂いた。
残りの三体はそのまま壁へ向かうが、その壁から、焦げ茶色の外套を纏った影が複数飛び出したかと思うと、一体が斧で頭をかち割られた。続いて二体目が、長大な槍で縫い留められる。最後の一体は剣で斬り上げられ、巨体が宙に舞った。それがべしゃりと砂地に落ちると、上り始めた朝日に、銀色の巨体が照らされる。
機構を操作して金具を引き抜くと、イチは砂地に降り立つ。少し遅れて、ぐらりと傾いだ巨体が砂の上に倒れた。
広がる体液が、砂に染み込んでいく。それを一瞥し、刀身についた体液を振り払うと、刃は徐々に手のひらに飲み込まれていった。やがて手のひらには、刀の身幅と同じ長さの、赤黒い筋が残るだけになる。
ふいに、視界の端で飛び上がるものがあり、イチは目をやった。三体の魚が伏した所には、焦げ茶色の外套を羽織った四人ほどの集団がいたが、その中から、長身の男がひとり軽く跳躍して、イチからやや離れたところに降り立った。足元の砂が、軽く散る。
その男は、イチと同じように口元を覆い、目元にはゴーグルをつけているが、その下に着ている白い制服で、何者かはすぐにわかる。チトセの奴だ。この街の治安維持組織の中で、討伐任務を担っている『刃持ち』、イチにとって会いたくない存在のひとつだった。
傍で立ち止まった男が、ゴーグルを外す。感情の見えない冷ややかな水色の目が、イチを見つめた。
「勝手なことをするなと、言ったはずだが」
静かな声音には、僅かに非難の色が混じっている。
「水袋は斬ってない」
水袋とは、この魚に似た姿をした生き物――通称『遣い』と呼ばれるそれが体内に有している器官で、その中には大量の塩水が入っている。海が失われ、まともな雨も降らなくなったこの世界での、真水を確保するための貴重な資源だった。
「それだけではない。もし討伐に失敗したら――」
「そんなヘマはしない」
被せるように返したイチに、男はなにか言いたげに眉を顰めたが、イチは振り切るように走り出し、壁へ向かった。追ってくることはない。他の三人も、ゴーグル越しにイチを見つめるだけで、それはいつものことだった。
砂を蹴り、壁へと飛び上がる。
低く遠く響く音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。




