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真冬のハーゲンダッツ

作者: 椰子
掲載日:2026/08/02


その男の子に会ったのは、私が結婚する三日前だった。


別に、結婚が嫌だったわけじゃない。


彼のことは好きだったし、五年付き合って、喧嘩もしたし、旅行にも行ったし、インフルエンザのときにはポカリを買ってきてもらった。

きちんと話し合いができて、互いの大切なものも、互いの嫌いなものも配慮できる。


この人となら、たぶん幸せになれる。

何の疑問もなく、心からそう思っていた。


ただ。


「結婚するんだなあ」


ひとつ声に出してみたら、それまで確かだったはずの足元が、ふいに頼りなく思えて。


怖くなった。

それだけだった。


その日は仕事が休みで、私は意味もなく電車に乗った。


行き先は決めていなかった。

窓の外を見て、降りたいと思ったところで降りようと思った。


そうして降りたのが、海の近くの小さな駅だった。


なんとなく、感傷に浸りたい日に海を見に来るだなんて。

恥ずかしいくらい、ありきたりだ。


まさか自分がやってしまう日が来るなんて。

ぼんやりと考えながら改札を出ると、風が強かった。


一瞬で髪がぐちゃぐちゃになって、せっかく巻いたのにな、と思った。


別に誰に会うわけでもないのに。


「相変わらずだね」


背後から知らない声がした。


振り向くと、男の子がいた。


たぶん、私よりだいぶ年下。


白いシャツに黒いパンツ。

学生服のようにも見えるけど、こんな時間に学生がふらついているなんてとも思うし、違うのかもしれない。


風に吹かれて、柔らかそうな黒髪が揺れていた。


「……誰?」


男の子は少し驚いた顔をした。


それから、ちょっと傷ついたように笑った。


「ひど」


「え?」


「はは、いや。いいよ」


そう言って、彼は私の隣を歩き始めた。


「海、行くんでしょ」


「なんで?」


「こっち、海しかないから」


たしかにそうだった。


変な子だと思った。


でも、不思議と怖くなかった。


ナンパならもっと違う感じがするし、そもそも彼は私のことを口説こうとしているようには見えなかった。


ただ当たり前みたいに隣を歩いていた。


海までの途中で、ハーゲンダッツを買った。

私はストロベリー、彼はバニラを選んでいた。


「寒くない?」


私が聞くと、


「そっちこそ」


と言われた。


「私は好きなの。冬にアイス食べるの」


「知ってる」


「……だから、誰?」


「誰だと思う?」


「知らないから聞いてるんだけど」


彼は笑った。

なんだか、妙に懐かしい気持ちになるのは、どうしてなんだろう。


海には、誰もいなかった。

砂浜に座ると、コートに砂がついたけれど、掃ったら落ちるだろうと気にも留めない。


三日後には結婚式だった。


母は泣くだろう。優しくて、涙もろい人だから。

父はたぶん泣かないふりをして、でも、誰も見てないところでこっそり泣くのかもしれない。


彼は緊張して、誓いの言葉を噛むかもしれない。


そんなことを考えていたら、隣の男の子が言った。


「幸せ?」


唐突だった。


「……何が?」


「結婚」


心臓が、少しだけ跳ねた。


「なんで知ってるの」


「指輪」


そう言われて左手を見る。


薬指に婚約指輪をしていた。


「ああ」


「で?」


「幸せだよ」


「そっか」


それだけ言って、彼は海を見た。


なぜだかその横顔に、私は無性に腹が立った。


「何、その反応」


「別に」


「信じてないでしょ」


「信じてるよ」


「じゃあ何」


しばらく黙ってから、彼は言った。


「よかったなと思って」


その横顔が、ひどく寂しそうだった。


もう30歳になる私に、こんな歳の知り合いはいない。


知らない人なのに。

どうしてそんな顔をするんだろう。


「ねえ」


「ん?」


「私たち、どこかで会った?」


彼は答えなかった。


代わりに、


「腹減った」


腹の虫と一緒に言った。


仕方なしに海の近くの古い喫茶店に入った。


彼はオムライスを頼んだ。

私はナポリタン。


なんだか懐かしい味がした。


「一口ちょうだい」


「やだ」


「ケチ」


「自分で頼めばよかったじゃん」


「ナポリタンも食べたかったんだよ」


「知らないよ」


そう言いながら、結局あげた。


彼は口の端にケチャップをつけたまま、嬉しそうに笑った。


「うま」


その顔を見ていたら、胸の奥が変な感じになった。

胸の奥を擽られるような、ぎゅっと締め付けられるような感覚。


知っている。


私は、この顔を知っている。

でも、一向にどこで見たのか、彼とどこで知り合ったのかわからなかった。


何度考えても、こんな年頃の知り合いなんていないはずだった。


店を出て、海沿いを歩いた。

何の気なしにゲームセンターがあったので入った。


彼はクレーンゲームが下手だった。

千円使っても小さな白い犬のぬいぐるみが取れない。


「貸して」


私がやると、一回で取れた。


「……昔からそういうのだけ上手いよね」


今度こそ、立ち止まった。


「昔から?」


彼も止まった。


しまった、という顔をした。


「ねえ」


「……」


「本当に誰なの?」


彼は困ったように笑った。


そして私が取った白い犬を受け取ると、その頭を撫でた。


「まだ内緒」


「何それ」


「今日だけだから」


「何が?」


「俺といられるの」


そんなことを言われると、胸が鳴った。

どうしても、恋愛的な意味に聞こえる。


だから困った。

三日後に結婚する女に、何を言っているんだと思った。


でも彼は私を見なかった。

白い犬のぬいぐるみを抱えて、先に歩いていった。


普段ならこんな一言に心を揺さぶられるようなことはないのだけれど、一日こんな知らない年下の男の子と過ごしたりして。

もしかしたら、私はおかしいのかもしれなかった。


マリッジブルー、そんな言葉が脳裏に過る。


冬の日の入りは早い。

あっという間に夕方になった。


何を言うわけでもなく駅へ戻る。

道すがら、彼が急に言った。


「手、繋いでいい?」


「だめ」


「即答」


「もうすぐ結婚するんだから」


「真面目だね」


「普通でしょ」


「じゃあ小指」


「もっと意味わかんない」


「お願い」


変な頼み方だった。

小指なんて繋いでどうするんだろう。


だから、絆されてしまった。

少しくらいなら、と思った。


彼の小指は、冬の空気に冷え切っていた。

そのかじかむ指が、私の小指にそっと絡んだ。


その瞬間。

どうしてだろう。


訳も分からず、泣きそうになった。


昔にも、こうして歩いたことがある気がした。


小さな手。


夕方の道。


帰りたくなくて。

でも帰らなくちゃいけなくて。


「……ねえ」


「ん?」


「私、あなたのこと知ってる?」


彼は前を向いたまま言った。


「知ってるよ」


「どこで会った?」


「ずっと前」


「いつ?」


「忘れちゃった?」


その声がひどく優しくて、余計に苦しくなった。


駅に着いた。

着いてしまった。

なんて、思ってしまっている自分がいる。


電光掲示板には、あと三分で電車が来ると表示されていた。


「俺、ここまで」


「乗らないの?」


「うん」


「なんで?」


「帰るところ違うから」


また、その言い方。

まるで、もう二度と会えないみたいな。


「ねえ、名前」


私は言った。


「名前くらい教えてよ」


彼は少し首を傾げて考えて。

それから私の目を見て笑った。


「ハル」


「ハル?」


「うん」


「連絡先は?」


「ない」


「スマホは?」


「……ない」


「……そっか」


聞いておいて、安心していた。

知ってどうするんだろう。


私が頬を緩めると、彼も口角を上げた。


電車が来るアナウンスが流れた。


「結婚、おめでとう」


彼が言った。


「……ありがとう」


「幸せになってね」


「なるよ」


「うん」


「ハルも」


そう言ったら。


彼は、一瞬考えて、泣きそうな顔で笑った。


「俺は今日、結構幸せだったよ」


電車がホームに入ってくる。


風が吹いた。


「じゃあね」


「うん」


「明日になったら、忘れていいよ」


「そんなこと言われたら、忘れられないでしょ」


「そっか」


彼は本当に嬉しそうに笑った。


ドアが閉まった。


一両だけのおとぎ話みたいな電車から、窓越しに手を振る。


むき出しのホームから、彼も笑顔で手を振った。


小さくなっていく姿を見ながら、私はずっと考えていた。


ハル。


ハル。


どこで会った?


そして。

電車が次の駅に着く少し前。


突然、思い出した。


「……うそ」


無意識に声が出た。


ハル。


私が六歳まで住んでいた海辺の町。

隣の家に住んでいた男の子。


毎日一緒に幼稚園に行った。

私より一つ年上で。


泣き虫だった私の手を、いつも握ってくれた。


引っ越すことになった日。


離れたくないと泣く私に、彼は小指を差し出した。


――大人になったら、けっこんしよう。


子どもの約束。


その一年後、母から聞いた。


病気で亡くなった、と。


私はたくさん泣いた。


たくさん泣いて。

いつの間にか、忘れていた。


名前も。

顔も。

声も。


ただ一つだけ。


なぜかずっと覚えていたことがあった。


冬でもアイスを食べるようになったのは。


ハルが、


「寒い日に食べるとうまいんだよ」


と言ったからだった。


膝の上を見る。

ゲームセンターで取った、白い犬のぬいぐるみ。


いつの間に結んだのだろうか。

首に、小さな紙が結んであった。


震える手で開く。


そこには、子どもみたいな字で一言だけ書いてあった。


『しあわせになって、やくそく』


「ばか」


涙が、ぽたぽた落ちた。


今まで蓋をしていたものが溢れるように。

嗚咽が止まらなかった。


私はもう30歳で。

あなたは、あの日のままだった。



三日後、私は結婚した。


夫には、その日のことを話していない。


たぶん一生、話さないと思う。


白い犬のぬいぐるみは、新居の寝室に置いた。


夫は、


「それ、前から持ってた?」


と聞いた。


私は少し考えて、


「うん」


と答えた。


嘘ではないと思った。


ずっと持っていたのだ。

気が付いてなかっただけで、本当は。


ぬいぐるみじゃなくて。

寒い日に食べるアイスとか。

手を繋ぐ時に、小指から絡める癖とか。

誰かと別れるとき、笑って手を振ることとか。


忘れたと思っていたものを、

私はずっと持って生きていた。


結婚して初めての冬。

夫とコンビニへ行った帰りに、バニラ味のハーゲンダッツを買った。


「寒くない?」


夫が笑った。


私は少しだけ笑って、


「寒い日に食べるとうまいんだよ」


と言った。


その瞬間。


海の近くの、小さな駅で。

黒い髪の男の子が、嬉しそうに笑った気がした。



というような夢を昔見ました。

供養のために真夏に真冬の話。

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