怒り
ここは人の感情を預かる場所、感情預かり所。
今日は少し退屈だった。けれど少しくらい退屈でいい。
今日もカウンターに座って待ってた。感情を預けた人たちがここに、戻ってくるのを。
でもやっぱり、一度感情を預けた人が取りに来ることなんてない。きちんと返さないといけないのに、誰も取りに来てくれない。
今日はあたりが少し暗い。雲が居座る空をぼーっと眺めてた。
「寒くはない?」
ついさっきカウンターに登ってきた野良猫に聞いた。人懐っこくて、撫でても怒らない。
「今日こそ誰か取りに来ると思う?」
にゃーんって猫語で返される。ごめんね、猫語はわからないんだ。
今日は誰も来なかった。天気も悪いしそろそろ閉めようかな。そんなことをぼんやり考え始めてた。
「すみません」
「……はい?」
猫に話しかけてたから、猫が言葉を喋ったのかと思ってびっくりした。
顔を上げたらスーツを着た女性がいた。眼鏡をかけてて真面目そう。
「ここで感情を預けられると聞いたのですが」
あ、利用者だ。
「そうですよ。ご利用されますか?」
今日一日中暇だったから、久しぶりの利用者についニコリと笑う。
「……お願いします」
けど利用者はどこか一点を見つめて目を細めるから、ごほんと咳払いした。ここは退屈でないと。
「椅子を用意しますので、足元にご注意ください」
利用者が椅子に座ったら、椅子を回して紙とボールペンを持つ。今回は少し時間がかかりそう。
利用者はまだ深刻そうに俯いてる。確かにここに元気そうな人はあんまり来ないけど、特にこの人は、苦しそう。
「えっと、感情を預かるにあたって確認していきたいことがありますので、一緒にご確認ください」
説明して「ご利用者同意」にチェックをつけたあと、今回預かる感情を聞いた。
「……怒りって言いますかね、そういう怒ってしまう感情です」
怒りを……。
紙の「お預かり感情」に向けてたボールペンがそっぽを向く。
「……本当に怒りを、ですか……?」
目の前の利用者の表情につられて、僕も眉を下げてしまう。
「なにかヘンですか」
「あっ、いえそういうわけでは……」
あんまり気が向かないけど、利用者が預けるって言ってるんだ。そっぽを向いてたボールペンで「お預かり感情」の欄に「怒り」を書いた。
怒りの感情を預けに来るなんて、この人はずっと苦しかったんだろうな……。
「理由を伺ってもいいですか?」
手元にメモ用紙があるのを確認する。
「理由ですか。……人を傷つけてしまうからです。私すごく怒りっぽくて、後輩のミスとかにキツく言っちゃって……」
メモ用紙に「怒りっぽくて人を傷つけてしまうから」って走り書きする。
「……よければ、どんな感じで怒ったのですか?」
記入事項には関係ないことだけど。
「世話のかかる後輩なんです。入社して数年も経ってるのに基礎的なミスをしてたりして、それで何度も怒っちゃうんです。
でもあるとき聞いたんです。その後輩が、私が怖いって言ってるのを。怖くて仕事に行こうと思えないって。すぐに怒っちゃう私が悪いのに、それで仕事を奪うようなことしちゃいけないって思って」
メモ用紙に追加で書く。
「……そうですか。ありがとうございます。
このあとあなたにも用紙を記入してもらうのですが……ほんとにお預かりしてもいいんですか」
「……なんでそこまで聞くのですか。そのために来たんですよ」
机の下に隠れてた利用者の手が、胸元の服を握る。
「……怒りっていうのは誰かのために使うものだと思います。それは間違いだと相手に伝えるために。けれど、その後輩さんはあなたの行いを無下にして恐れてしまっている。せっかくの指摘を、後輩さんは無視しているんです。
そんななかで怖がっているからと、あなた自身を犠牲にしてまで怒りの感情を預けるというのは、今後後輩さんが野放しにされる、ということでもあります。野放しにされた後輩さんは学ぶこともできなくなり、後輩のミスは先輩であるあなたの責任、だとか言われて、『理不尽』にあなたが怒られることだってあります。
だから僕は何度も聞いていました。本当に預かっていいのか」
「……でも、傷つくのは私だけでいいから」「…………」
預けに来た利用者に説得みたいなことするべきじゃないのは知ってる。けどそれを理由に自分を犠牲にするのは、あまりにも割に合わない。
本当にここに来る人は自分を犠牲にするような、優しい人ばかりだ。
「……では、これでお預かりしますね」
結局預かっちゃったな。
「このあと『感情処理』をします。反映するのに少し時間がかかりますのでご理解ください。……感情を戻したくなったときは、いつでも来てくださいね。いつまでも待ってますから」
利用者のお礼を聞いたあと、手元に残る用紙を見た。
優しいのに、優しくない。
利用者のいなくなったカウンターに少し寂しさを覚える。
いつの間にか降りだしてた雨でカウンターが少し濡れてる。今日はもう、閉めようかな。
うるさい音を出してシャッターを閉めた。
今日も誰も取りに来てくれなかったな。淡い期待はいつまでも期待のまま。
一つ溜息を漏らしたあと、
「『感情処理』をしないと」
部屋を移動して、手元に残った紙、利用者が書いた『感情』を専用の液に浸した。
浸したら透明だった液は色を変えて、部屋をその色に染める。今回は赤色。でも真っ赤じゃなくて、淡くて少し濁った赤色。
これがあの人が抱えてた「感情」。本当はこんなに優しくて綺麗な色、預かりたくなかったけど。
これで乾かしたら「感情処理」が終わる。赤色に染まった用紙を手に取れば、浸してた液がスッと透明に戻る。
淡く少し濁った赤に包まれた用紙を持って、また部屋を移動した。今度は「感情保管室」。預かった「感情」を壁に、糸と洗濯バサミで挟んで保管する場所。
「今日も誰も取りに来てくれなかったよ」
誰もいない部屋に向けて言った。そこはこれまでに預かった感情の色でいっぱいの部屋。
赤色、青色、黄色、緑色、紫色、ピンク色、白色、黒色、灰色……いろんな色。
赤色、と言っても今回みたいな淡い色もあれば、濁った色もある。ピンクみたいな赤色もあれば、紫に近い赤色もある。
同じ色が存在しない部屋。それが、とっても綺麗なんだ。
日付を記入して、また新しい感情がここに来た。優しい感情が。
明日こそ、誰か取りに来てくれるかな。




