第一章二十九 例外の覚醒者
重い足音が、コロシアムの地面を鈍く震わせた。
「ドン、ドン」と規則的に響くそれとともに、赤髪の男――アキトが姿を現す。全身から滲み出るような紅い光が、周囲の空気を歪めていた。
「ヒナちゃん……なんで、トウマを庇ってるんだ?」
低く押し潰すような声が、ヒナに突き刺さる。
――わかっている。この空気、この圧力。
あの食堂での出来事が、鮮明に脳裏に蘇る。
ここで「好きだから」と言えば――今度こそ、ただでは済まない。
それでも。
ヒナは、右手を強く握りしめた。震える指先を押さえ込みながら、真正面からアキトを見据える。
逃げない。
先輩を裏切らない。
そして――静かに口を開いた。
「私は、トウマ先輩の味方だから」
「ッ……!」
アキトの目が見開かれる。次の瞬間、拳がきつく握られた。
――なぜだ。
どうして俺じゃない。
どうして、あんな弱くて頼りない男なんだ。
胸の奥で渦巻く「嫉妬」という感情が、理性を侵食していく。
だがアキトは、歯を食いしばり、それを押し殺した。
「……そうか」
歪んだ笑みが浮かぶ。
「なら、トウマの泣き顔を見るのが楽しみだな!!」
次の瞬間、地面が爆ぜた。
アキトの身体が弾丸のように前へ飛び、ヒナの顔へと拳が迫る。
「緋の神託者!!!」
カグラが叫び、手を伸ばす――だが、間に合わない。
避けられない。
終わる。
――あ………
思考が途切れる。
ただ、底のない絶望だけが胸を満たした、その瞬間。
――光が、交差した。
「何が起きた!?」
カグラの声が、わずかに震える。
ヒナの前に現れたのは、淡い橙色の光。
それはやがて形を成し、広がる。
「……翼……? まさか……!」
白に近い橙色の光を帯びた翼が、神々しく広がっていた。
その翼が、交差し、アキトの拳を受け止めている。
ありえない。
神託者の覚醒は、例外を含むが、七人に一人。
それも、高位の力を持つ者に限られる。
ヒナのレベルは――たったの五。
本来は、八十を超える。
例外はいない。
常識が、音を立てて崩れた。
――何が引き金になったのか。
考えるまでもない。
トウマだ。
その存在が、この世界を変えようとしている。
大きな歯車が、ずっと動かなかった世界を動かそうとしている。
次の瞬間――
「バサッ」と空気が裂けた。
「ぐあっ!!」
アキトの身体が弾き飛ばされ、石壁へ叩きつけられる。
破片が飛び散り、衝撃がコロシアム全体に響いた。
「……ヒナ!! お前、今何をした!」
血を拭いながら立ち上がるアキトの声に、ヒナは答えない。
――何、この感覚。
身体の奥から、力が溢れてくる。
恐怖も、不安も、すべてを押し流すような熱。
今なら――届く。
ヒナは右腕を掲げ、詠唱を紡いだ。
『大地の神よ、我が敵を貫け――ロック・エッジ!』
橙色の魔法陣が地面に広がり、鋭い岩が瞬時に突き上がる。
アキトの身体が宙へと浮かび上がった。
「ぐあああぁぁぁ!!」
右足が貫かれ、鮮やかな赤を噴き出したアキトの苦悶の声が響く。
その光景に、カグラは言葉を失った。
――常識が、崩れていく。
無色の存在、異常な蘇生、そして今の覚醒。
すべてが繋がっている。
この二人が――世界を変えている。
もしここで、その芽を摘めば。
やっと動き始めた世界が、止まってしまう気がした。
世界を救うのは、選ばれた勇者ではない。
きっと――こういう存在だ。
「緋の神託者! 大丈夫か!」
カグラの剣が黄色に閃き、岩を砕く。
解放されたアキトは地に落ち、そのまま意識を失った。
「カグラさん!」
ヒナの声に、カグラは静かに顔を上げる。
「……ヒナちゃん。やはり私は、君たちを殺せない」
その声には、迷いと決意が混じっていた。
「殺したら――世界に、拒まれる気がする」
ヒナは眉をひそめる。
あまりにも勝手だ。
先輩と私を殺そうとしたのに。
「どういうことですか?」
「…………」
カグラは答えない。ただ、俯いたまま言葉を飲み込む。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「約束する。私はもう、君たちの味方だ」
顔を上げる。
「どんな脅威からも――この命に代えて守る」
ヒナの視線は、さらに鋭くなる。
「そんな言葉……信じると思いますか?」
「思わない」
即答だった。
「……それでもいい。本当にすまない。私は――自分勝手だ」
ヒナは何も答えない。
ただ、翼が淡い橙色の光の粒となって舞い散る。
トウマを抱き上げ、背を向ける。
もう、振り返らない。
「ヒナちゃん……」
小さく呼びかける声は、届かない。
遠ざかる背中を見つめながら、カグラは静かに目を閉じた。
「……ごめん」
その言葉は、誰にも届かない。
やがてカグラは反対の出口へと向き直り、歩き出す。
一歩ずつ、確かめるように。
「次に会う時は――もっと強くなっていよう」
誰に聞かせるでもないその誓いは、静かに蒼が澄み渡る空へと消えていった。




