五十三、はははつよし
「……え?」
「気にしたら負けってよくいうけど、生きてるんだし、何も思わないなんて無理よ。でも傷つけられて素直に言われた通りに生きるなんてのはもっと駄目、自分の人生なんだもの」
思わぬ言葉に、深月は固まり母を見つめる。
悪口? 誰が、誰に?
饒舌に語り続ける母の横顔を凝視し、ぱちぱちと目を瞬かせつつ、口を開く。
「……母さん、が? え、誰に、悪口、言われたって?」
「ん? ご近所の奥さんとか、初めて来るお客さんとか、最近ここらに住み始めたおじさんとか、そりゃ色々な人によ」
「……うそ」
「そんな不思議な事じゃないでしょ。誰も彼もと仲良しこよしになんてなれないわよ、相性って誰にでもあるんだもの」
信じられない、と母を凝視する。こんなにも美人で、明るくて、気さくで、店に来る常連の誰もが好む人柄の母が。
目を見開く深月に、母は頬杖をついて苦笑してみせた。
「そんなに驚き? 私、そこまで完璧な人間じゃないわよ」
「……母さんみたいに愛想良くしてても、そういう人、いるの?」
「いるわよ? 数え切れないくらい」
「……なんで?」
「さぁ? 大して話した事のない人とかから『どうせ男に媚びて生計立ててるんでしょ』とか『体持て余してんだろ』とか、腹の立つ言葉の一つや二つ、日常茶飯事よ。美人って罪ね」
何だろうか、その光景が難なく目に浮かぶ。
どうして見てもいないのに想像できるのだろうか……いや、そうだ、似た光景を見た事がある。
普段の自分と……学校で大勢に悪意を向けられる自身と、ほぼ同じ状況なのだ。
「……母さんはその時、どうしてるの」
「そうねぇ…『お客様に尽くすのが接客ですもの』とか『生憎ですがあなたには毛程も興味がないので』とか、その時に応じて色々考えて迎え撃ってるわね」
くすくすと笑う母に、思わず戦慄の視線を向ける。どうしてそんなにも強気に返せるのか。
ひくひくと頬を痙攣させ、黙り込む深月。そんな娘の衝撃を受ける姿に、登紀子の方が戸惑いの表情を浮かべる。
「……本当にそんなに驚く事じゃないわよ。どうやっても合わない人はいるし、特定の他人の行動の全部が気に入らないって人もいる。一人たりとも同じ人なんていないんだもの」
「…………」
「そんな人にこっちから合わせるなんて、人生損よ。向こうがこっちを捩じ伏せるつもりなら、こっちもぶつかっちゃえばいいの。まぁ、こっちからしていいのは反撃だけね?」
ぱくぱくと口を開閉するだけとなった娘があまりに可笑しいようで、登紀子は絶えず笑い続ける。
「もっと我が儘に生きていいのよ。だってーーー」
ーーーそもそも人が生きてるのは、その人自身が〝生きたい〟って望んでるからだもの
紡がれたその言葉に、深月は何も言えなくなる。
それ以上に……曇っていた視界が全て透明になった気分で、初めて感じる大きさの心地良さがあった。
「……嫌われる、とか、敵が、できる、とか、考え、ないの?」
「私が何かするしない以前に、勝手に敵なんて現れるもの。直接私が関わってない人でも、私のやってる事が気に入らなくて勝手に嫌ってきたり」
「……そっか、気にしても、無駄だったんだ」
はぁ……と、深月の口から深い溜息が溢れる。張り詰めていた何かが崩れ、溜息と共に流れ出していくような、そんな気がする。
「やっぱり、学校で何かあったのね」
「……うん」
「言ってくれたらよかったのに。言ったでしょ、相談は解決の為じゃなくて、気持ちを整理させるのに必要だって」
やれやれ、と困り顔で肩を抱き寄せられ、深月は母の胸元に身を寄せる。豊満な膨らみに頭を預け、母の温もりと匂いに浸る。
しばらくの間そうしていた深月は、躊躇いがちに母に尋ねた。
「……母さん、私、どうすればいいかな」
「まず、何がしたい?」
「……居場所が、欲しいかな。教室のみんなは、私の事……そんなに好きじゃない、みたいだから」
「その子達との付き合い方、我慢してた?」
「……うん。波風立てたり、したく、なかったから」
「そっか……でも、嫌になってきた?」
「……うん」
「そっか、じゃあ、いっそ喧嘩売っちゃえ。……それから? どうしたい?」
「……環君と、ちゃんと、友達に、なりたい」
「そうね、あの子はきっといい子だもんね」
「……いっぱい、助けてくれたの。お礼とか、言いたい事とか、沢山ある、のに」
「そっか、じゃあ、遠慮なくお礼しちゃおう」
背中を押す、母の言葉。
じんわりと伝わってくるその言葉に、自分自身への苦笑が溢れる。
結局のところ、あの〝声〟はきっかけの一つでしかなかった。元から傷つくことを怖がった自分が、何もせず逃げようとした事への免罪符として、自分の体質を憎み恨んだ……ただそれだけの話だった。
睨まれるのが嫌で、孤立するのが嫌で、大人しく隅に引っ込もうとして、結局目を付けられて敵視されて。
彼女の声がなくとも、弱い自分はいつか同じ状況に陥っていたかもしれない。
変わらなければならなかったのはーーー自分自身だった。
「……でも、何から始めたらいいのかな」
湧き出した勇気が、急速に萎む。
不安が胸の内に膨らみ、上がっていた視線が勝手に下がっていく。
そんな娘にくすくすと笑いかけ、登紀子はやがて、娘の髪をーーー自分と異なる黒い髪を指差した。
「じゃ、まずはそれから変えよっか?」
くるくると、墨のように真っ黒な髪を指先に巻きつけ、弄ぶ母。
言わんとしている事を察した深月は、一瞬迷う素振りを見せつつ……やがて意を決したように、唇を噛み締め、強く頷いてみせた。




