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四十九、にんげん やぁめた

「…………は?」



 呆然と、此花の声が溢れる。

 見つめる先の、自分の手……一番邪魔な人間を排除する武器を持っていたはずの手。


 そこからぽとりと、武器が落ちた。



「え? え?」



 力を抜いたつもりはない。確と握りしめ、目の前の男の腹に突き刺し、首を裂き、確実に始末するつもりで握り締めていた。


 はたと固まっていた此花は、咄嗟に振り向く。

 確かに腹に刺したはずなのに、邪魔者は平然としたまま立っている。血も一滴も流れていない。


 相変わらず、憎たらしい無表情でこちらを見つめてきている。



「っ……! 避けんな!!」



 すぐさま足元に転がった武器を拾い上げ……ようとして。




 此花の手は武器に触れる事なく、擦り抜けた。




 横たわる桃色のプラスチックの持ち手、確かに手を当てているのに、いつまでたっても触れる感触がない。

 空気に触れているみたいに、何も感じない。重さも固さも、何もない。



「……何、これ」



 己の手を凝視し、困惑する。何の変哲も無い、いつもと何も変わらない自分の手だ。

 なのに触れない。一向に武器が拾い上げられない。


 思考を凍りつかせていた此花は、すぐに背後に佇む邪魔者を睨みつけ、詰め寄る。



「お前、お前ぇ! なんだ、私に何したんーーー」



 邪魔者の襟首に摑みかかろうとして……その手もまた、擦り抜ける。

 飛びかかる勢いで襲いかかった此花は、その勢いのまま俯せに倒れ込み、膝をつく。激しく手と膝を打ち付けたのに、やはり何も感じない。


 確かに邪魔者に触れたはずなのに、触れない……幽霊にでもなったように、擦り抜けるだけだ。



「……何、これ。何、何、何……?」



 呆然と、意味のない呟きばかりが溢れる少女。

 やがて、視界の端に見える靴先に気付き、がばっと顔を上げる。


 何より愛おしく、自分を狂わせてやまない美しい少女。

 欲しくて欲しくて堪らなくて、自分だけの物にしたくて、群がってくる邪魔者が多くて、だから全部押しのけて自分の世界にしまおうと心に決めた少女。


 自分の暗躍を知られ、強引にでも手に入れようとした少女が。


 ーーー訝しげに、自分の方では無いどこかを見つめて立ち尽くしている。



「み、深月ちゃん……? ね、ねぇ? どう、なってるのかな、これ。見て、なんか、触れないの。どうなってる、の、かな。おかしいの……おかしいよね、これ」



 何より欲し、隣に求めた少女に助けを求め、尋ねる。

 何が起こっているのか微塵も理解できず、問う相手を間違っていると自覚もできぬまま、少女に向けて手を伸ばす。


 その手はやはり、擦り抜けた。

 そして少女は……此花を見ていなかった。



「あ、れ……? 環くん、刺され……あれ?」



 きょろきょろと辺りを見渡し、困惑の表情を浮かべる深月。その目は少年だけを捉え、此花には一瞥もくれない。

 此花の姿を探すように視線を巡らせながら、すぐ目の前にいるにも関わらず、一度たりとも此花を視界に捉える素振りを見せない。



「深月ちゃん? ねぇ、どこ見てんの? 深月ちゃん?」

「あ、あの……あの人はどこに? さっき確かに、カッターで、環くんを……あ、あれ? どうなって……?」

「やめてよ、ねぇ、ふざけないでよ。変な事やめてよ、ねぇ。あたしここにいるでしょ、ねぇ、見えてるでしょ。見えてるでしょ。ねぇ、ねぇってば!」



 惚けた姿ばかりを見せる深月に、耐えかねた此花が摑みかかろうとして、やはり擦り抜け倒れこむ。

 何度も何度も、立ち上がっては飛びかかって己の存在を示そうとして、そのどれもが擦り抜け、一切見向きもされない。


 存在を認識できないだけではない、存在そのものがなくなってしまったかのように。



「何……? 何、何よこれ、何だよ、何がどうなってんだよ!? ねぇ、深月ちゃん? 深月ちゃん!?」

「あ、あの、さっきの人はどこに……え、どうしたんですか? そんな悲しそうな顔をして……やってもうた、って、どういう事ですか? え?」

「こっち見てよ! ねぇ! 見てってば! あたしはここ! ここだよ! ここにいるよ! いるってば! 見てよ! あたしを見てよ! ねぇ! ねぇってば、深月ちゃん!!」



 どんなに叫んでも、目の前で動いても、深月は困惑の表情であらぬ方を見つめるばかり。

 誰に話しかけているのか、此花には見えない誰かを見ていて振り向きもしない。


 徐々に涙声になりながら、それでも諦めきれない此花が只管に叫ぶ。吠える。泣き喚く。

 その場で地団太を踏もうとして、やがてそれすら何の音も響かせない事に気付き、ようやく止まる。



「なんで……なんで、なんで、なんで?」

「縁を切ったからね、何しても届かないよ。ややこしくなりそうだから、当事者だけ記憶を残したけど……もう、この世の誰も君を覚えてないし、認識もできないよ」



 棒立ちになる此花は、その声にはっと表情を変えて振り向く。邪魔者が冷たく見下ろしてくる様に気付き、かっと目を吊り上げ歯を食い縛る。



「お前……お前何した!? 戻せ! 戻せ、塵屑! 深月ちゃんが見てくれない! 深月ちゃんに気付いてもらえない! 戻せよ! 戻せっての!!」

「……はぁ、せっかく我慢してたのに、君の所為で台無しだよ」



 襟首を掴もうとして、やはり触れず、目の前で怒鳴りつける事しかできず、血走った目で睨みつける。


 邪魔者は深い溜息をつき、肩を竦めるだけ。

 心底面倒臭く、興味がなく、どうでもいいといった様子で佇む邪魔者に、此花は冷や汗を垂らし息を呑んだ。



 ()()は、何だ。

 目の前にいる、人間の男の姿をしたものは、何だ。



「本当は切る気なかったんだけど、君があまりにも鬱陶しいからさ……何より、君自身がすでに人間の括りから逸脱し始めてたし、他に影響を及ぼし始める前に片付けておこうと思ってね」

「……な、にを」

「結構楽だったよ。元々彼女以外との縁を殆ど絶ってたし、記憶もあんまり紡げてなかったみたいだし、数本分切るだけで済んだ。この先〝何か〟になるにしても、大したものにならなかっただろうけどね」

「お前、何、を……」

「それにしても、迷惑な事してくれたよね。信条は曲げるつもりなかったのに……でももう、いいや。君みたいな面倒臭い連中に絡まれるぐらいなら、さっさと切っちゃったほうが楽だしね」



 ゆらり、と。

 目の前の〝何か〟の形が揺らぐ。


 人の形をしていながら……いや、得体の知れない何かを無理矢理人間の形に整えたかのような何かが、詰まらなそうに自分を見つめてくる。



「僕を恨んでも、お門違いだよ……君が他人にやった業をそのまま返しただけだからね」



 此花はようやく理解した。

 自分が、敵に回してはならないものを()()()()のだという事を。



「別に、無理して人間である必要なんかないってわかったし……決心をつける機会をくれた事だけ、感謝しとこうかな」



 ふ、と。目の前の〝何か〟が口元を緩める。

 悍ましく、恐ろしく、優しさなど微塵も感じない、無表情から突然浮かんだ微笑み。


 がたがたと震える此花は、首元を人差し指と中指で挟むようにされながら、掠れた声で呟いた。



「ーーー化け物」

「ん? 化け物と呼ばれるのは、あの人達に失礼だよ……どうせ呼ぶなら、こっちの方がいいな」







 ーーー糸司(いとのつかさ)、糸の神ってさ。






 ばつん、と無慈悲な音が聞こえたのを最後に。

 此花の視界は、思考は、記憶は、何もかもが真っ暗な闇に呑まれた。

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