十、はさみのねいろ
ーーーしょきん、しょきん。
軽い金属音が聞こえる。
刃物を擦り合わせる……鋏だ。鋏の音が聞こえてくる。
深月は半ば手放しかけていた意識が一気に引き戻され、戸惑いの視線をあちこちに向ける。
鋏? 誰が? どうしてこんな所に?
見知らぬ男に襲われるわ、得体の知れないお化けに見つかるわ、頭がこんがらがっているのにまださらに何かあるのか。
冷え切った頭で嘆いていた時。
自分に覆い被さる男の背後に一つ、人影が立った。
「……はぁ、やっと見つけた」
しょきん。
また聞こえた鋏の音。
その直後、男の背後のお化けの形がぐしゃりと崩れた。
途端に、サラリーマンの男が白眼を剥き、がくりと倒れ込んでくる。糸の切れた人形みたいに唐突に、ぷっつりと圧が消え去った。
「……え? え?」
深月の胸に顔を埋めるような形で沈黙した男。
手首を掴む力も抜けて、ようやく自由になった。すぐさま男の体を押しのけ、重さに苦労しながら横に転がし、抜け出る。
かなり乱暴に突き飛ばしたが、男は起き上がらない。まるで死んでいるようだ。
頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、深月はまじまじと男を見やり、そしてはっと我に返って正面を振り向く。
そこに、いた。
道の真ん中で佇む一人の少年……見覚えのある彼が、黒い靄を掴んで向かい合っている姿があった。
《 ダ レ ダ ? 邪 魔 ス ル ナ ヨ》
「うるさいよ、気持ち悪い残滓撒き散らして。くだらない未練なんかさっさと捨てて、潔く消えてよ」
うぞうぞと蠢く靄。何度も不気味に光る赤い目で、少年を睨みつけ靄の手を伸ばしている。
気の狂いそうな悍ましい光景だが、少年は微塵も動じていない。無表情のまま、片手をズボンのポケットに突っ込んで立っているだけだ。
《 ハ ナ セ ド ケ オ 前 ニ 用 ハ ナ イ ン ダ ヨ》
「僕はあるよ。君の所為でとても迷惑してる……君がそうやって他人の体を使って悪さをする所為で、僕らのお気に入りのお店が一つ潰れちゃった。だから始末をつけにきたんだ」
《 知 ル カ 離 セ オ 前 殺 ス ゾ 》
凄んでいるように見える、黒い靄。
しかしそれは微塵も少年に触れられず、何かに押し返されているように伸びない。それどころか、徐々に小さくなっているように見える。
少年ははぁ、と溜息をつき、黒い靄を半目で見やる。
「無理に決まってるでしょ……君は精々人の欲望とか負の感情を煽れるだけ。僕にはそういうのないから、操れないよ」
《 殺 ス 殺 ス 殺 シ テ ヤ ル 》
「はいはいわかったわかった……取り敢えず君は処分だね」
野球の球程の大きさになって、尚も喚く黒い靄。
どう見ても不利なのに煩く騒ぐその様は、偶に見る理不尽な要求をする迷惑な客のようだ。見ていて非常に苛立つ。
少年は初めて表情を変え……心底面倒臭そうに眉間に皺を寄せ、不意に掴んだ靄をぐっと虚空に突き出した。
「ーーーぬっへっほふ」
闇の中に向けて、少年が何か呟く……いや、名を呼ぶ。
すると……ぬた、のた、べた、と奇妙な足音を響かせて〝それ〟が姿を現す。
「…………!?」
深月は思わず悲鳴を押し殺す。
〝それ〟は見るからに人間ではなかった……生物にも見えなかった。
辛うじて体と手足はわかるものの、顔に当たる部分は見当たらない。そしてそれを構成するものは……言うなれば、腐った肉の塊だ。
人間が肥満を極めればこうなるだろうか、という体をゆっくり動かし、異形は少年の元へ近付いていく。
その瞬間、少年の手に囚われた黒い靄が明らかに態度を変えた。
《 ヤ メ ロ 何 ダ ソ レ ハ 近 付 ク ナ 来 ル ナ 》
もがくように靄を歪ませて、声を発する……あれは、怯えているのだろうか。
少年と深月に対しては強気な口調を保っていた靄が、異形が出現するや否や、縮こまって震えて見える。
そんな黒い靄を冷たく見やったまま、少年は異形の前に靄を掴む手を差し出した。
「さ、めしあがれ」
「♡」
少年が許可した途端ーーー異形の体が変形し、巨大な口のようなものが広がる。
ばくんっ!
ぶわっと幕のように開いたそれは、瞬く間に少年の手と靄を咥えると、しゅるんっと元に戻る。
少年の手はそのままに、黒い靄だけを綺麗さっぱり平らげて、異形は満足げに手(?)で体を叩いた。
「お疲れ様……また見つけたら呼ぶから、宜しく頼むよ」
「♪」
声は出ていないのに、少年の言葉に応えてぷるぷると身体を震わせる異形。それはやがて踵を返すと、不気味な身体を揺らし、夜闇の中へと姿を消した。
ぼた、ぬた、ねと、べた。足跡が遠ざかり聞こえなくなる。
後に残ったのは、静寂と二人の少年少女、そして気を失ったサラリーマンの男。
まるで初めから何もなかったかのように静かな暗がりの中で、微かな夜風が吹き抜ける。
深月は呆然と異形の消えた方を、そして少年を凝視するばかりだった。




