九、くぐつのまのて
「ーーーやぁ……こんばんは、お嬢さん」
暗闇の中から掛けられた声にはっと振り向く。
息を呑む深月のもとに……街灯に照らされた下に姿を見せたのは、見知らぬサラリーマンの男だった。
本当に見覚えはない。どこかですれ違っただろうか、その程度の印象の薄い、中肉中背の眼鏡の男だ。
「君、さっき凄く気分悪そうにしてた娘だよね、大丈夫かい?」
にこやかに笑いかけながら、近づいてくる男。
近くで見てもやはり知らない。口振りからするに、帰り道の途中で見かけただけだろう……完全な他人だ。
だが、ならば何故こんな所にいるのだろう。
この辺りに民家はほとんどない。あっても遠く離れていて、帰る途中に遭遇する事はまずない。
少なくとも、これまでに自宅近くでサラリーマンと擦れ違った事は、一度としてない。
ならば、まさか……追ってきたのか。ということはつまり、あの〝声〟と視線の持ち主か。
初対面相手に失礼な疑惑だが、男の放つ雰囲気がその考えに信憑性を持たせる。
「……大、丈夫、です。すこし、あの、目眩がしただけ……なので」
「それはいけない。無理は禁物だ。こんな道の途中じゃなくて、ちゃんと休める所に行った方がいい。手伝ってあげよう」
身を案じる言葉を吐き、手を伸ばしてくるサラリーマン。親切な人だ……とは、何故か思えない。
暗い中で見えた男の顔は、にこにこと笑みを浮かべている。
しかし深月にはそれが、どうにも胡散臭いというか、嘘臭いというか、ぎこちないというか。
深月を見ているようで見ていない、そんな印象を感じた。
「まぁまぁ、遠慮せずに……まぁまぁ」
「…っ、あ、あの! もう、本当に結構ですので……だ、大丈夫ですので!」
「まぁまぁまぁ、そう言わず……まぁまぁまぁまぁ」
蹲ったまま動けずにいる深月を見下ろしていた男は、不意に手を伸ばし深月の二の腕を掴んでくる。
そのままぐいっと引っ張られ、体勢を崩し膝をつく。痛みに声が漏れ、項垂れてしまう。
明らかに苦しむ姿を見せているのに、男は謝罪もせず、悪びれる様子も見せない。
「これはいけない、本当に具合が悪そうだ。ほらこんなもの脱いで、胸を締め付けてはいけない。呼吸を楽にしなければ」
「ひっ…!?」
「暴れないで。これは緊急事態だからだよこうしなきゃいけないんだよ、だから仕方ない仕方ない。まぁまぁまぁまぁ、暴れないで、暴れないで」
突如、男の手が深月の制服に伸び、勝手に釦を外そうとしてくる。咄嗟に抵抗するが、男の力は強く引き離せない。
ぎちぎちと生地が引き伸ばされ、釦以前に制服自体が引き裂かれそうなほどに引っ張られる。
男の目は虚ろで、言動も不確かだ。機械の電子音声のように抑揚のない声で、一方的に喋り続けるばかり。
只管に不気味で悍ましく、気持ち悪さが募る。
深月の思考は恐怖で支配され、力の入らない、呼吸も思考も覚束ない身体で必死の抵抗を続けた。
「や、やめてください…! やめっ……ひ、人を呼びますよ!?」
「まぁまぁまぁまぁまぁ……暴れんじゃねぇよクソガキが!!!」
「ひぃっ……!?」
にこにこと不気味な笑みを浮かべていた男が、突如豹変し怒鳴りつける。
深月が悲鳴を上げて震えると、男は両肩を異様な力で掴み……アスファルトの上に押し倒してきた。
「ひ……ぁ…!」
「こっちが下手に出てりゃつけあがりやがって…! うるせぇんだよてめぇらは! 公共の場でギャハギャハ鬱陶しく笑いやがって…! なんで俺が気ぃ遣わなきゃならねぇんだ! なんで俺が邪魔みたいに見やがるんだ! 邪魔なのはてめぇらだろうが、社会の塵の分際でよ…!!」
誰に向けてなのか、凄まじい剣幕で吠える男。目は血走り、猛犬のように歯を剥き出しにする様は、どう見ても正気ではない。
深月はさーっと顔から血の気を引かせ、身を強張らせる。
とうとうこんな時が来てしまった、呆然としたまま思う。
視姦はされても、直接手を出された事はない。それも年上の男に、高圧的に怒鳴られて押し倒され、頭が真っ白になる。
その間に男は深月の両手を掴み上げ、頭の上に捻り上げて片手で拘束する。
もう片方の手で胸元を引っ掴まれた瞬間、深月の体の震えはより一層酷くなった。
「ゃ、やめ……やめ、て、くださぃ……ゃめ、て……やめてください……!!」
「おらっ! おら! くそっ、邪魔なんだよ! 目の前でこんなもんぶら下げて見せつけやがって! お前らだろ! お前らが悪いんだろ! こんなもんつけて歩いてるから悪いんだろ! なのになんだ! 見てただけなのに! 見てただけなのにセクハラとかよ! 痴漢とかよぉ!! ふざけるな屑が! 塵が!!」
悲鳴を上げられない、動けもしない。
とうとう制服の釦が弾け飛び、シャツとブラウスがあらわになる。それも引っ掴まれ、びりびりと引き裂かれる。
途端に、ぶるんっと飛び出す白い肌。
憎くて仕方がないくらいに目立つ、脂肪の塊。
大きすぎる胸の膨らみとそれを覆う下着があらわにさせられても、周知よりも恐怖の方が勝る。
「ふゃはははは…! お、お前が悪い、お前らが悪いんだよ! 俺が疑われるのも! 嫁と子供に逃げられたのも! 全部全部お前らが悪いんだよ!!」
「ぃや……いや、いや、いやぁぁぁ……!」
「だったらもう壊してやるよ! 今まで散々楽しんだろ? 俺の人生部壊して楽しかったろ? だったら俺にもやらせろよ! お前らの人生ぶっ壊してもいいだろ!? なぁ!?」
何を言っているのか、理解もできない。
蜘蛛の巣に囚われた蝶に……時刻的に蛾か……になった気分で、顔を近付けてくる男を見上げる他にない。
こんなにも大きな声で騒いでいるのに、誰も気付いていないのか。こんな時間に帰るからだと、改めて自分と彼女達を恨む。
どうして、どうして、どうして。
凍りついた思考で、そんなことばかりを思う。
どうして自分がこんな目に。顔がいいから、体がいいから? そんなのは自分の所為ではない。
同級生に嫌われるのも、男に下卑た目で見られるのも、何一つ自分に非はない。
なのにどうして、自分一人だけがこんな不幸に見舞われなければならないのか。
「っ……さ、ぃ、あ、く……!!」
涙が溢れる。悔しくて、食い縛った歯の間から血が滲む。
抵抗すら封じられ、生臭い男の息に思わず苦悶の声が漏れる。目を逸らす事もできず、震えるばかり。
ーーーその時、深月はそれ目の当たりにする。
鬼の形相で、涎を垂らして迫るサラリーマンの男。
その肩に張り付き……いや、纏わり付く、黒い靄のような影を。
黒く、泥水のように濁った闇。
それが蠢き、歪な人の形を成していく……そしてやがて、影の中にぎょろりと二つの目が覗く。
《 ツ カ マ エ タ 》
にたりと嗤った影から聞こえる、あの〝声〟。
サラリーマンの肩越しに見下ろしてくる、どす黒い悪意に満ちた人に見える顔。
深月は声も出せず、呼吸までもが凍りつく。
これは何だ……そう疑問を抱く暇もなく。
人型の闇とサラリーマンの男が覆い被さり、深月の意識は闇に染まってーーー
ーーー…しょきん、しょきん。
はたと、突如聞こえたその音に、我に返った。




