第十六話 乳母の狂気
タイトルから予想されるように、残酷、流血の表現があります。
「使用人ごときが、バルデンハイム侯爵夫人に、いいえ、宰相夫人に意見するなんて …… ! 身の程を知りなさい!!」
キイキイと耳障りな声が、子供部屋に響いた。私はこの乳母の声があの頃も大嫌いだったと思う。
「 …… 何度でも、申し上げます。王族の姫君、しかも『精霊の種』を宿す大切な『精霊の姫君』をお育てする資格は、あなた方にはありません!」
「フッ。こんな『忌み姫』でも、私達の役に立つのだから、大事にしているじゃないの」
「『忌み姫』ですって?!」
「ファルザルク王国は、高位貴族が円滑に支配しているおかげで安定しているのよ。なのに、他国の王族の血など不要! 災いになるかもしれない精霊も、必要ないものばかりじゃないの。忌々しいだけの『忌み姫』だわ。良い呼び名でしょう? 私が考えたのよ」
「愚か者! 高位貴族が聞いて呆れます! 乳母の立場を利用して、王族に身勝手な要求や贅沢三昧にあきたらず、許しがたいのは、姫様に対する虐待です!」
使用人の制服を着た黒髪の少女が、私を守る様に抱きしめながら、乳母に言い返していた。
ダメ、乳母は口答えを許さない。
私なら、食事を抜かれる程度で済んでしまう。でも、使用人は見えない場所を鞭打つのだ。突然消える使用人もいるのだ。この乳母を、これ以上怒らせてはダメ!
この小部屋は、乳母が使用人を折檻する為に使われていた。時には、小部屋に入った使用人の代わりに、重そうな袋が持ち出されていったのだった。乳母の背後に控えている護衛騎士は、彼女の言いなりだったのだ。
「無礼者! その子を連れ出そうとしただけでなく、私になんて無礼な口をきくの! この罪人を、即刻! 殺しなさい!」
「 …… っ!!」
彼女は、私を離すまいと抵抗した。しかし、私達は、無表情な騎士に力ずくで引きはがされてしまった。
私は、部屋に一つだけ置かれた、豪華な椅子の後ろに追いやられた。椅子には、乳母が堂々と女王のように座っていた。
そして、あっさりと護衛騎士の剣が振り下ろされた。椅子の背もたれ越しに、千切れた鎖と指輪が、赤い色と一緒に飛び散り床に落ちて転がっていった。
乳母の高笑いが、窓のない部屋に響きわたった。そして、乳母は、愉しげに騎士と何か会話をしていた。騎士は、動かなくなった使用人の少女を、手早く袋に詰め込んだ。二人は、私の存在を忘れて、小部屋から出ていってしまった。
私は、床に落ちた鎖に通された指輪を、夢中で拾って握りしめた。
そう、隠さなきゃ。乳母に渡しては、ダメ。
私は、必死で手の中に握りしめて隠したのだった。
あの後、私はあの指輪は何処に隠したのだろう? なくしてしまったの? それとも、乳母に見つかって、取り上げられてしまった?
ふと、自分の握りしめた手の中に、シャラリとした細い鎖と硬い感触があった。
そっと、手の中を見てみるとぬるりとした感触の赤い色がついた、金の指輪と銀の鎖だった。
あの時、殺された使用人の名を、私は『シア』と呼んでいた。正確に覚えていないのは、当時の私が幼かったのと、心が空っぽのお人形の様だったからだと思う。何にも興味がなく、ただ毎日言われた通りに過ごしていたお人形だったから …… 。
使用人達は、乳母の目を恐れながら、お人形の世話をしていた。そんな使用人の中の一人が、私によく話しかけてくるようになった。
艶やかな黒い髪に大きな琥珀色の瞳をした、くるくる変わる表情が愛らしい、十六歳くらいの少女だった。
私は、乳母の前ではお人形のままでいて、彼女と一緒にいるときだけは、戸惑いながらも普通の幼子でいられた。
ある日、私は、彼女の服の下に隠されていた、銀の鎖に通された指輪を見つけた。キラキラ輝く金色で、小さな青い石がついたシンプルな指輪だった。彼女が、頬を染めて教えてくれた。これは、『けっこんのやくそく』の指輪なのだと …… 。
手の中にある指輪の内側に、彫られた小さな文字を今なら読める。
「イトラスより、愛を込めて」
私は、声をあげて泣いていた。あの頃、私は、泣くことも許されていなかった。
私は、シアを悼んだ。
幼い私に、空っぽだった私の中身に、優しい言葉を、抱きしめられる温もりを、あたたかな思い出を、彼女は与えてくれた。
だけど、記憶の底に沈めて忘れてしまった。そうしなければ、私は耐えられなかった。
マリシリスティアの思い出の少女『シア』、彼女の本名は、シンシア=ウィラ=ノーリーズという。ノーリーズ男爵家の四女で、エルシアの双子の妹だった。
当時、マリシリスティアが生活していた子供部屋は、バルデンハイム宰相の妻だった乳母の権力で、一種の密室になってしまった。
マリシリスティアの両親は勿論、国王陛下でさえ彼女に会えなくなっていた。
乳母は、昼寝をしている、病気で安静にしている、癇癪を起こして手がつけられないから会わせられないと、堂々とありもしない理由を並べ立てて、面会を拒否した。身内の誰もマリシリスティアに会えない日々が続いた。
せめて、生死だけでも確認させろと、父親のグレイルードが強引に踏み込んだ事もあった。本当に、わずかに姿を確認しただけで、すぐに部屋から追い出されてしまった。
シンシアは、志願して身分を偽り、使用人として潜入した。ファルザルク王国の平民に、黒や茶色の髪色が多いので、怪しまれないだろうと考えたからだった。
シンシアは、乳母の陰険な仕打ちから、密かにマリシリスティアを庇い続けた。
ある日、彼女はマリシリスティアを守る為に、子供部屋から連れ出そうとして失敗した。外部との接触の困難な状況での単独行動だった。彼女は、乳母の息のかかった護衛騎士に、理不尽に殺されてしまった。
マリシリスティアは、ある意味人質だったのだろう。
当時から、ファルザルク王国の王宮は、バルデンハイム宰相のやりたい放題だった。国王陛下がなんとか抑えてはいたが、国政は宰相のものだった。
ああ、これは、精霊の種の知識なのだろう。私が、見聞きして知った事ではないのだから …… 。まるで、過去に戻って見たような映像と知識だった。
春の訪れを感じさせる庭で、エルシアと何気なく話をしていた時だった。
「エルシア、けっこんって、ずっと、いっしょにいるやくそく、でしょう?」
私は、結婚がどういうものか、知りたくてエルシアに話をおねだりしたのだった。
「結婚、ですか? 私には、縁のないお話ですが、私の妹は、早くから結婚相手に申し込まれて、婚約しておりました。相手の男性は騎士です。相手の仕事が忙しくて、婚約式も出来ませんでしたが、妹はとても幸せそうでしたね」
「マリーも、アレクシリスと、けっこんのやくそくしたよ」
「アレクシリス殿下は、姫様の母上の異母弟です。国法で、結婚出来ない相手に決められておりますよ」
エルシアは、困り顔で教えてくれた。私は、表情は乏しかったけれど、とても動揺していた。アレクシリスと交わした結婚の約束は、私を支える大切な思いだった。
「アレクシリスとけっこん、どうしてダメなの?」
「そうですね、それは、姫様に近い家族だからです。姫様の曾祖父様が、国王陛下だった時代に決められたのですよ」
「アレクシリスとやくそくは、ダメなの? エルシアの、いもうとは、けっこん、したの?」
エルシアは、俯いた。
「妹のシンシアは、馬車の事故で早くに亡くなってしまいました」
「シン、シア …… ? シア?」
「私達は、似てない双子でした。私達は琥珀色の瞳だけ同じでしたが、妹は、黒い髪の綺麗な、しっかり者でした」
「(シア …… ! )」
私は、殺されたシンシアの事を思いだした …… !
アレクシリスとの約束は、守ることはできない。
『罪悪感』と『絶望』が、私の心を砕いて壊しかけた。
私のせいで、妹のシンシアが殺されたと、エルシアは知っているのだろうか?
ああ、イトラスは知っているはずだ。シンシアの恋人は、イトラスだった。
シンシアの家族も、きっと、知っているはずだ。二人の恋を見守っていた家族は、どんな思いだったのだろう。
なのに、私を許してくれているの?
『マリー、思い出してしまったのね。あなたを泣かせたくなかったのに …… 』
「精霊の種 …… ?」
『あの時、本当は貴女の記憶を封じようとしたの。貴方にの壊れそうな心に、精神干渉をしたら、逆に私の方が精神干渉されてしまったの』
淡く光る精霊の種が、私の正面に立っていた。表情は、相変わらずよくわからなかった。
「シンシアの死を、エルシアは知っているの?」
『シンシアは、もしも自分が失敗して、命を落とすことになったとしても、エルシアに後悔や憎しみを残したくなかった。だから、エルシアには、潜入の事は秘密にしていたの。家族も、シンシアの死の真相を伝えるのを、望まなかった。だから、表向きはシンシアは馬車の事故で亡くなった事になった。その指輪は、精霊達が、隠さないといけないと、強く願ったマリーの為に、気を失った貴女の手から、わたしの元に届けてくれたの』
あの日のまま、指輪に鮮血がついている理由は、精霊達の不思議な力のせいなんだろう。
「乳母だった、バルデンハイム侯爵夫人達は、本当に盗賊に殺されたのですか?」
『ええ、盗賊に馬車が襲われて、全員殺されているのを、翌日に街道を行く商人に発見されたのよ。ただ、その盗賊は見つかっていないし、盗品も売られた形跡がなかったそうよ。そして、盗まれなかった馬車の荷物から、黒髪の少女の遺体が発見された。乳母達は、王宮から荷物を持ち出せる良い機会だったのでしょうね。おそらく、領地で処分するつもりだったのでしょう …… 』
それは、肯定でもあり、否定でもある答えだった。
『宰相は、妻と娘の死を悲しむよりも、マリシリスティア姫という人質が、自分の手を離れた事を悔やんでいたみたいよ。娘の死すら、政略結婚の駒が減ったことを嘆いた程度の悲しみだったって、精霊達が教えてくれた。だから、あの宰相は、マリシリスティア姫を忌まわしく思い、逆恨みしていたのよ。そうね、『禿げろ』の呪いは成就したから、次はやっぱり、『モゲロ』かしら …… ?』
精霊の種が、ウフフと黒い笑顔を浮かべたように見えた。
そして、彼女は最後にこう言った。
『マリシリスティア姫、ごめんなさいね。わたし、色々とやらかしちゃった!』
えっ?! 何をしたのですかっ!
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