【幕間】エリザベッタ・フォンテーヌの初恋
エリザベッタ・フォンテーヌは幸福な少女だった。
近年強国に数えられるようになったロベルタ王国で、フォンテーヌ侯爵家という名門貴族の家に生まれ。
優しく美しい両親と優秀な跡継ぎの兄、それから多くの使用人たちに囲まれて、何不自由なく育ってきた。
フォンテーヌ家の財産で買えないものはなく、その権威に跪かない者はいない……は言い過ぎかもしれないが、周りの貴族の多くはエリザベッタを敬い、「素晴らしいお嬢さんだ」と褒め称える。
この世に手に入らないものなんてない、と、本気でそう思っていた。
そんなエリザベッタも、12になる頃には現実を知ることになる。
エリザベッタがどんなに望んでも、手に入らないものができたのだ。
それが、王子オズワルドの婚約者の座である。
幸運にもオズワルドとは同い年で、エリザベッタの社交界デビューはオズワルドのお披露目パーティーの席だった。
同い年の、身分の釣り合いが取れた高貴なふたりは、その日の夜のファーストダンスを共に踊った。
たくさんの貴族たちに囲まれながら、絵に描いたような王子様に手を取られてワルツを踊ったその時間は、エリザベッタを夢見心地にさせる。
時折目が合ったオズワルドに、にこりと微笑まれるだけで天にも登る気持ちになった。
出会って数時間しか経っていなかったけれど、絶対に彼の花嫁になりたいと強く思ったのだ。
ダンスが終わり、彼の手が離れるのが酷く惜しかった。
けれど、先程のダンスを見ていた大人たちから「お似合いでした」「きっとオズワルド殿下の婚約者はエリザベッタ嬢になるでしょう」などと言われて、そんな寂しさも一気に霧散していく。
同年代の少女たちの妬むような視線すら、この高鳴る恋心にはスパイスにしかならない。
上機嫌で家に帰り、早速父であるフォンテーヌ侯爵におねだりをすることにした。
「お父様、わたくし、オズワルド殿下のお嫁さんになりたいです」
かわいい愛娘のお願いなら、なんでも喜んで手配してくれるはずだった父は、エリザベッタの予想に反して困ったように眉を顰める。
「エリー、それは難しいかもしれないよ」
「えっ?」
「オズワルド殿下は、確かに優秀な王子殿下だ。見目も良く聡明で、エリーと並んで踊る姿はとてもお似合いだった」
「そうでしょう!?だったらどうして……」
エリザベッタが駆け寄ると、フォンテーヌ侯爵は彼女を優しく抱き留めながら少し悩むように唸った。
「うぅん、かわいいエリーには少し難しい話だけど、頑張って聞いてくれるかい?」
「もちろんですわ。わたくし、家庭教師からも賢いと評判ですもの」
「そうだったね。じゃあ……」
そう言って、フォンテーヌ侯爵が語り出したのは、この国の後継問題だった。
「今この国には、ふたりの王子殿下がいらっしゃるね。オズワルド殿下と、その兄であるリアム殿下だ」
「はい、存じ上げておりますわ」
「偉いね。で、そのリアム殿下だけれど……内々に、近く立太子されることが決まった」
リアム・ロベルタは、オズワルドより10個年上のこの国の第一王子だ。
どちらも女王ダイアナと王配の間に生まれた正式な王族で、なんの瑕疵もなく優秀。
順当に行けばリアムが王太子になることは、誰の目にも明らかだった。
「それは、おめでたいですわね……?」
「そうだね。リアム殿下の婚約者は、ロベルタ王国内の伯爵令嬢。つまり、次期王妃はその伯爵令嬢になるのがほぼ確実だ」
フォンテーヌ侯爵の言葉に、エリザベッタはふむふむと頷く。
「それは分かりますけれど、それとわたくしがオズワルド殿下のお嫁さんになれないのは、なんの関係がありまして?」
「考えてご覧、エリー。王太子となるリアム殿下のお嫁さんが伯爵令嬢なのに、第二王子であるオズワルド殿下のお嫁さんが侯爵令嬢であるエリーだったら、周りの目にはどう映るだろう」
そう問いかけられて、エリザベッタは思案する。
「そうですわね……リアム殿下よりもオズワルド殿下の方が、強い権力を持っていそうだって思うかもしれませんわ」
「流石、エリーは賢いね。そう、難しい言葉で言うと、殿下方のパワーバランスが崩れるんだ」
リアムの方が年上で、婚約者も決まっている状態だから、今は彼が王太子となることに関して反論は少ない。
けれど、これでオズワルドにリアムの婚約者よりも家格の高い令嬢が嫁ぐと決まれば、貴族たちはリアム派とオズワルド派に別れてしまうだろう。
「下手をすると、国を二分する戦いになるかもしれない」
「そんな……だって、どちらも女王陛下と王配殿下のご子息でしょう?どうして争いになるんですの?」
「分かりやすく言うなら、伯爵家派と我がフォンテーヌ侯爵家派ということになるだろうね。加えて、まだ幼いオズワルド殿下を王太子にすれば上手く操れると考える下劣な貴族や、反対に次の王妃が伯爵令嬢なら、実家をネタにして上手く脅せると考える卑怯者がいるかもしれない」
フォンテーヌ侯爵の話は、幼いエリザベッタには残酷に思えた。
普段キラキラした貴族たちの、エリザベッタをチヤホヤしてくれる大人たちの、汚い部分をまざまざと見せつけられるようで気分が悪くなる。
「お父様はね、この国を愛している。汚い大人の事情で、未来ある若者たちに不安な思いをして欲しくないんだ」
「お父様……」
「だから、いくらエリーのお願いでも、オズワルド殿下の婚約者にエリーを推薦するのは難しい。オズワルド殿下には、国外の王族か高位貴族と縁を結んで、外交の面でこの国を支えてもらうのが一番だと思っている」
真摯な父の言葉に、エリザベッタは反論出来なかった。
オズワルド殿下。
わたくしの初恋の王子様。
侯爵の部屋を後にして、自室へ帰るまでの間、エリザベッタの胸を占めるのはオズワルドの端麗な笑顔だった。
あの笑顔がエリザベッタのものになることは、この先何があっても有り得ないのだと理解している。
けれど、頭で理解しているのと心で納得できるかどうかは別問題だ。
胸の中がぽっかり空いたみたいだった。
大事にしていた宝物が、ただの幻だったと知った時のような喪失感だった。
エリザベッタは歯を食いしばって涙を堪えながら、自室の扉に手を掛ける。
ちょうどその時。
「エリザベッタお嬢様?」
廊下の先にいたのは、長い間フォンテーヌ侯爵家の寄子となっているギール家の息子、ケビン・ギールだ。
彼はギール家の主人が愛人に産ませた息子だからと言って、10歳になったら屋敷を追い出されるはずだった。
そこをエリザベッタが引き止めて、エリザベッタの専属の騎士にするからとわがままを言ってフォンテーヌ侯爵家に住み込みで働かせているのだ。
「お嬢様、泣いておられたのですか」
「ち、違いますわ!誇り高きフォンテーヌ侯爵家の娘が、なぜ涙など流すのかしら!」
「しかし……」
ケビンは心配そうに眉を寄せたあと、「自分で良ければ、話を聞きます」とエリザベッタと目線を合わせて屈み込んだ。
昔は変わらなかった身長も、今ではケビンの方が一回りも二回りも大きい。
「生意気ですわ……」
エリザベッタは力なくそう言ってから、先程父からオズワルド殿下の婚約者にはなれないと言われたことを伝えた。
もちろんリアムの立太子の話はまだ内密のものなので、それは避けて話したが、エリザベッタがオズワルドの婚約者になれば国を二分する争いになる可能性があると話すと、ケビンは驚いたように目を見開いた。
「そう、ですか……」
ケビンはそう呟いて、寂しそうな顔で笑う。
「自分はそれでも、お嬢様の恋路を応援いたします」
「え……?」
「確かに、オズワルド殿下と婚約するのは難しいのかもしれません。貴族社会の難しい話は、自分にはよく分かりませんが……それでも、自分は誰よりもお嬢様の優しさを存じ上げております。そんな素敵な女性が恋を諦めるなんて、自分は見たくありません」
そう言うと、ケビンはエリザベッタの前に跪く。
「どうか、お心を強くお持ちください。お嬢様が殿下を想い続け、そして殿下もまたお嬢様と同じ気持ちになった時、もしかしたら侯爵閣下のお考えも変わるかもしれません。自分はお嬢様がどなたに嫁ぐことになっても、必ず傍でお支えいたします」
「ケビン……ふ、ふん。殊勝な心掛けね。褒めて差し上げますわ」
ケビンの言葉に泣きそうになるのをぐっと堪えて、エリザベッタはそっぽを向いた。
心にぽっかり空いた穴は、いつの間にか温かな何かで満たされていた。
***
「なーんてことがありましたけど、あなたあの時からわたくしのことが好きでしたの?」
エリザベッタは帰りの馬車の中で、向かいに座るケビンを揶揄うように尋ねる。
「はい、自分は一目見た時から、お嬢様に惹かれておりました。それに、共に過ごせば過ごすほど、そのお人柄にも」
「……あなた、少しくらい恥じらって見せたらどうですの?よくもまぁ、そんな恥ずかしいことを堂々と……」
揶揄うつもりが逆にエリザベッタの方が恥ずかしくなってきて、熱くなった顔をパタパタと扇で扇ぐ。
「お嬢様をお慕いすることの、どこに恥ずかしい要素がありましょうか」
「その甘い言葉が恥ずかしいって言っているんですのよ!この朴念仁!」
キッと睨みつけても、ケビンは愛おしそうに目を細めるばかりで全く響いていない。
「朴念仁、とは心外です。自分はお嬢様の心の機微なら、誰よりも理解しているつもりですから」
「へ、へぇ、そう。なら、わたくしが今何を考えているか当ててみなさいな」
エリザベッタがツンと顎を逸らすと、ケビンは「そうですね……」と顎に手を添える。
「明日からどんな顔して学園へ行けばいいかとか、編入生は生意気だけど、そんなに悪くないかもとか」
「……そういうことじゃないでしょう」
「えぇ、少し意地悪を言いました。……自分の勘違いでなければ、少しだけ自分のこと、意識してくださっているのでは?」
ケビンが確信めいた口調でそう言うと、エリザベッタは「っ……」と唇を噛む。
「……お嬢様、自分はお嬢様が心配でなりません」
「いきなりなんですの!?」
「分かりませんか。あなたを想っていると告げた男と、なんの警戒もせずにふたりきりで馬車に乗るだけでは飽き足らず……そんな無防備な顔を見せて」
ケビンがおずおずとエリザベッタの頬に触れた。
その指先から僅かな熱が伝わってきて、息が詰まる。
「……ケビン、わたくしは……」
「わかっています。あなたが殿下を慕っていた時間は、簡単に忘れるには長すぎる。すぐに自分を好きになって欲しいなどとは言いません。ただ、自分があなたを想っていた時間もまた、簡単に諦めるには長かったので」
そう言って、ケビンは真っ直ぐにエリザベッタを見つめる。
「……わたくし、そう簡単には靡きませんわよ」
「はい、覚悟の上です。ですが、今までよりは苦しくないのです。正々堂々、あなたを口説けますから」
ずっと傍にいた男の初めて見る甘やかな微笑みに、エリザベッタは顔を赤くする。
「……宜しくてよ。あなたの忠義に免じて、チャンスをあげます。……このわたくしを、振り向かせてみせなさい」
「っ……!」
今度はケビンが赤くなる番だった。
「……あなたは自分をどうしたいんですか……」
「ふん、わたくしをときめかせようだなんて100年早くてよ!」
馬車の中がいつもより暑い気がして、エリザベッタは静かに扇を開いた。




