ハンバーグ
1989年、8月15日。午後23:01。私と今日子が散々泣いた後はずっとバタバタしていた。警察に事情を聞かれて経緯を話したり、病院に到着した父と母に怒られて、楓の親父さんに何度も何度も私は謝ったのだ。
「楓くんがそうしたくてこうなったのなら、後悔はないでしょう」
相変わらず楓の親父さんは怒らない。楓がああいう子になっているのはこの人の影響が大きいだろう。うちの親と交換してほしいくらいの人格者だ。楓が小さいときから男手一つで楓を育ててきたのに加えて、楓の人格を尊重していつも楓にどうしたいか何がしたいが聞いてから親父さんも話していたの思い出す。うちの親なんか私が物心ついた頃には医者になれ、跡を継げだったのに比べると雲泥どころか月と大地ほど感覚が離れている。
「それに私は嬉しいんですよ。あの子が自分より人の事を優先できる利他的な感情を持っていることが」
楓のお母さんは楓が小さいときに交通事故で死んでしまった。車が交差点に突っ込んできて、いち早く気がついた楓のお母さんは信号待ちをしていた全く知らない人達を逃がし、楓のお母さん自身は逃げ遅れて事故にあってしまう。運転手は心臓麻痺で楓のお母さんを引いた時には息絶えていたかもしれない言うし救われない事件だった。
楓もお母さんと同じように人を守る選択が出来る事が、ちゃんといい子に育っている証なんだろう。
「でもまだ目を覚ましてないんですよ。目を覚ましても、ちゃんと元通りに生活できるかもわからないんですよ…」
私は仮にも医学を志すものとして多少の知識がある。心肺停止した人間が蘇生して障害を持たずに目を覚ます確率なんで僅かしか無いのだ。
「目は覚ましますよ」
集中治療室の楓を見ながら楓の親父さんが答える。ときどきこんな不思議なことを言う人だ。
「さっき寝ている楓と約束してきました。明日の晩御飯に楓くんの好きなハンバーグを作っておくので、間に合うように目を覚ますようにって」
楓のような満面の笑みでそう言われると本当にそんな気がしてくるから不思議だ。私もつられて少し口角が上がるのを感じて少し気が楽になった。
「でも目を覚ましても退院はできないと思うので、食べられませんよ?」
親父さんははっとした顔をして苦笑いをする。この人が人格者で、尚且つこんな感じの人だから、楓も王子様キャラみたいな純粋な子なんだと本当に思う。
「困りました…。最悪冷凍保存ですかね」
楓は翌朝には呼吸や心拍も安定してきたので処置室から病院の個室に移されていた。親父さんと私は付き添いをしていたが、私は徹夜明けの疲れと楓がの体調が安定してきた安心感から楓のベッドにしがみつく様になりながら眠ってしまっていた。
目をしました頃にはひぐらしの鳴き声が聞こえてくる夕方になっていた。親父さんは目を覚ました時には居なくなっていて、私の肩には毛布がかけられている。やっぱり約束通りにハンバーグを作りに帰ったのだろうか。
暑さでのどが渇いていた事を思い出した。私は14時間ぶりくらいの水分を取ろうと、病室の水差しからコップに水を注技始めた所、急に声をかけられた。
「お水、僕の分も貰える?」
私はコップから水が溢れているのに暫く動きが取れなかった。楓が私に話しかけてきた現実を理解するまでに時間がかかってしまった。
「桜子姉さん、お水溢れてる」
少しかすれた声で私の名前を呼ばれて、ようやく水差しを置いて楓の所へ向かう。楓の顔を覗き込んで矢継ぎ早に話しかけていく。
「楓、私見える?、指何本ある?。痛い所は無い?身体は動く?」
楓のほうはだいぶ混乱しているのか、上手く答えられていない。それが私を余計に不安して更に質問を浴びせかけてしまう。
「ああ、えっと足が動かないかも」
そう言われて私の体に重いものが押しかかる。やっぱりだ、心臓マッサージをしてたって蘇生の確率がちょっと上がるだけだ。心臓が止まれば血が流れない異常何処かに麻痺や障害が出ることのほうが多い。
「ごめんね、楓。全部私のせいだわ」
私はうなだれながらもナースコールを押してナースを呼ぶ。後は私より医者や看護婦に任せた方が良いだろう。
「そんな事ないよ。桜子姉さんな無事で良かった。それより僕、お水飲みたいな?」
私がショックを受けているのを察してか、楓が明るく声をかけてくる。手はちゃんと動くようで私の髪をそっと撫ででくれた。それが嬉しく泣きそうになりながら、ここで泣いたら楓を傷つけてしまうと必死に我慢する。
「可愛く言っても駄目よ、病院の人来るまで少し待ちなさい」
出来るだけといつも通りに受け答えをしてみて、楓の頭にそっと触れてみる、
「大丈夫、痛くないよ」
そう答えた楓の方から私の手に頭を擦り付けてくる。本当に猫みたいだ。優しく頭を撫でていたが、つい顎も撫でてしまいたくなり実行してしまった。楓も不思議そうに微笑んでいる。
そんな中に看護婦達がやって来て、私は恥ずかしくて顔が真っ赤になり、顎を撫でながら動きが止まってしまった。
「意識が回復したの、良かったわね」
楓が助かったと教えてくれた看護婦が微笑みながら、医師の共にテキパキと楓の身体を確認していく。
結果、現状ではやっぱり足に麻痺があるようだ。膝から下には痛覚がなく、股関節は動かせるようだけど歩けるかは今後の頑張り次第となりそうだ。
「お水は飲んでもいいですか?」
忘れていた。目を覚ました瞬間から飲みたいと言っていたんだった。水差しに見をやった看護婦があらあらと苦笑してコップを私に渡してくれる。
「たくさんは駄目ですよ、唇を潤すくらいの気持ちで少しずつね」
楓に少しずつ水を飲ませてやると少し落ち着いたようで、いつもの楓の笑顔が帰ってきた。
「ありがとう。桜子姉さん」
私達を見ていた看護婦達が微笑みながら楓の親父さんに連絡しておくからと教えてくれた。親父さんは今頃本当にハンバーグを作っているのだろうか。親父さんのハンバーグ美味しんだよなと思い出し、あの人の言う通りになったんだなと笑ってしいた。それを見ていた楓が不思議そうにしていたので理由を教えてあげる。
「昨日親父さんが言っていたのよ、晩御飯はハンバーグだから、夕方には目を覚ますようにって」
それは聞いた楓はガッツポーズをして喜んでいるが、この親子はどんだけ純粋なんだろうかと少し呆れてしまう。
「昨日心臓止まって、さっき目を覚ました人が晩御飯食べに帰れるわけ無いでしょう」
さっきの私のように項垂れている楓をみて、歩けないかもしれないことより、ハンバーグが食べられないことのほうが絶望感が強いなんて何考えているのか。
「病院にお弁当で届けてもらえないかな?、桜子姉さんも食べたいよね?」
まあ、食べたいけど。なんて思いを知られるわけにもいかず顔を背けて頬をかいて誤魔化した。
次の日のお昼。楓の親父さん、丈夫さんが持ってきてくれたハンバーグ弁当を食べながら、これからどうなのだろうかと考えていた。豚肉に牛脂を練り込んである特製のハンバーグは臭みがなく、木下家秘伝のソースによく合う味わいだ。
とりあえず今は楓の容態も安定しているが、リハビリなどしていく事を考えると丈夫さんだけでは大変だろう。私が大学を休学して楓のサポートをしたほうがいいのではないかとそんな考えが頭に浮かんでくる。
私はハンバーグを飲み込みながら、両親にどんな顔をすれば良いのか、大学に受かってからは結構両親に酷いことを言ってきた。父より優秀な医者になると啖呵も切ってしまったし、そんな物言いを咎めてきた母にも学歴を絡めて色々と言ってしまっていた。
「親の金で大学に行ってるのよね」
少しだけならと先生の許可も出て、ハンバーグを頬張っていた楓がモグモグと咀嚼しながら私に何か言ってくる。多分どうかしたのか聞きたいのだろう。
「考え事してたのよ」
結構な量を頬張っているのに次のハンバーグをフォークに刺して準備している辺り食い意地張りすぎてはないだろうか。
「少しって言われているでしょう」
私から睨まれて残念そうな顔をしている楓を見ていると悩んでいるのも馬鹿らしくなってしまう。楓はフォークを1度皿に戻して、コップの水を飲み干して楓が口を開いた。
「何考えてたの?」
私は空になったコップにまた少し水を追加して、楓に渡しながら答える。
「これからの私達のことよ」
何も考えずに真面目に答えた後、この言い方はまた誤解されるのではないかと思った瞬間。
「もう結婚する?」
ほら、やっぱり。いや私の言い方が悪かったのだと反省をしながらため息を付いた。
「まだしないわ!」
「けちー」
子供みたいにふくれっ面で私に悪態をついてくる楓の頭を軽くチョップしながら話を続ける。
「これからあなたの身の回りの事とか考えると、親父さんの他にも手伝える人が居たほうが良いでしょう?」
またハンバーグを食べ始めた楓が不思議そうにこっち見て、腕組みしながらハンバーグを咀嚼している。
「大学を休んで私も手伝おうかと思ってたのよ」
「駄目、それは駄目」
楓が私に向かって腕でバツを作ってアピールしてくる。駄目と言われると思っていなかったので少し面食らってしまった。
「なんで駄目なの?」
私の考えも聞きもしないでいきなり否定されたので食ってかかってしまったが、楓は気にせずに続けた。
「桜子姉さんのお父さんとお母さんが頑張ってくれたから、東京の大学に通えているんでしょう?」
それを言われると二の句が継げない。私だってそう思っているから悩んでいるのだが、楓がそういう以上は私からは何も言えないだろう。楓の親父さんが言ってくれればいいけど、あの人は多分あるがままに受け止めてしまう。だから助けてほしいとか言ったりしないと思うので多分無理だろう。
「でも大丈夫なの?。私が居なくて困らない?」
うーんと唸りながら、また楓は腕組みをしている。私の言い方も少し意地が悪いと思うが楓が望んでくれれば理解が得られると思ってしまう。
「桜子姉さんがいてくれれば嬉しいけど、僕のわがままで叔父さんたちや桜子姉さんに迷惑はかけられないよ」
本当にこの子は…。ほんのりと目が潤んで私は上を見上げた。こんな時までいい子でいなくてもいいと思うのだけど、私が原因でこうなっているのだし、強く出れない所もあるので仕方ないのかもしれない。
「じゃあ後2日だけね」
水を飲んでいた楓が思いっきり咽っている。何を今更と思うが、これぐらいは言ってもいいだろう。
病室の扉が開いて楓の親父さんが入ってくる。咳き込む楓の背中を擦りながら、親父さんに挨拶する。にこやかにしているが少し疲れているように見えるが大丈夫だろうか。
「楓くん、大丈夫ですか?」
ベットを挟んで私の反対側に座ったおじさんはちょっと躊躇っているように見えた。楓の容態のことでなにか言われたのだろうか。
「どうかしたんですか?」
どう言葉にすればいいのか親父さんは迷っているようだった。楓の容態がよほど悪いのかと心配になり、私は楓の手を強く握って覚悟を決めた。
「何を言われても驚きません。早く言ってください」
親父さんは悪くないのについ言葉が強くなってしまう。悪いのは私なのに、本当に私は。
「実は、私は楓の心臓のことなんですが」
ほら、来た。覚悟を決めろ桜子。
「この病院だとまだMRIと言う検査装置がないので楓くんの心臓を調べることが出来ないそうなんです」
MRIがあれば確かに心臓の状況が手に取るようにわかるだろう。
楓が不安そうにしてしている。自分の知らない単語が出てきて逆に怖くなったんだろうか、私の手を握る楓の力が強くなっている。
「それで東京の桜子さんの大学病院へ転院することになりまして」
楓がバンザイしている、心底嬉しそうだ。この子、自分がそれなりに重大な病気の可能性があるって自覚ないのだろうか。
「楓くん、バンザイされると離れてしまうパパとしては悲しくなってしまうのですが」
親父さんと私が頭を抱えている中、気まずそうに楓は苦笑いをしている。一つ私の心配が杞憂になったがこれからどうなることやら。




